主体性、当事者、自由意志、自我・・・。私たちが当たり前に思っている「意識」とは、もともと私たちに備わっていたものなのか。

これは「暇と退屈の倫理学」「中動態」といった概念で、自由意志という近代の前提に疑義を呈した哲学者と、脳性麻痺で障害と向き合って当事者研究を続ける小児科医の対話の記録である。

自由意志は存在するのか?「責任の生成」 國分功一郎 熊谷晋一郎
(画像=『アゴラ 言論プラットフォーム』より 引用)

「中動態」とはなにか。

國分功一郎は、中動態について以下のように説明している。

能動態と受動態だけではなく、中動態という態がかつてあっ たんですね。ではどうしてなくなったのかというと、ある時期から行為の分類の仕方が変わったということなんです。

インド・ヨーロッパ語族の言語には、動詞の態は現在の能動-受動とは異なる態が存在していた。それが、主語から外に向けて動作が行われる能動態と、動作が主語へ向けて行われる中動態でした。中動態が受動態の意味も含んでいました。(P90)

國分は、中動態のわかりやすい例として、カツアゲをあげている。カツアゲで金を差し出す場合、能動か受動か。脅されてはいるが、自分の手で金を差し出しているので受動ではない。けれども能動とも言えない。ここに中動態が現出する。「謝る」「関心を持つ」や「勧められて本を手に取る」なども、能動とも受動とも言えない。責任をはっきりさせるために言語が能動と受動を問うようになったのだ。

そして、古代ギリシア時代には「意志の概念が存在しない」と言う。國分の見立てによると、中動態の消滅が意志概念の起こりではないかということだ。

つまり、われわれは本来、「自由意志」というものではなく、「中動態」的な文脈の中で生活してきた。「自由意志」を近代化の過程で「創出」してきたが、それを前提にしているといろいろと問題が出てくると言うのが、國分の問題提起だ。

「当事者研究」 とはなにか

「当事者研究」は、北海道の浦河町で暮らす、 おもに統合失調症といった精神障害を抱える当事者たちによって生み出された。類似した困難をもつ仲間とともに、その生きづらさを解決していく方法である。

熊谷晋一郎は以下のように説明している。

問題と人を切り離して、行動を降雨のような出来事として眺め、研究のテーブルに乗せていき、みなでワイワイガヤガヤとそのメカニズムを探っていく、これが当事者研究として採用されました。(P40)

これは統合失調症のような精神障害だけでなく、比較的周囲に見えにくい困難をもっている人たちのあいだで急速に広がってきた活動だ。周囲から見てわかりづらい障害は、自分から見てもわかりづらい、ということでもある。小さいころからなぜか周りの人と同じように振る舞えないという理由は、本人にもわからない。そのためには、「変えること」に先立つ、「知る」ことを念頭に置いた活動をしなくてはならない。