「アサシン(Assassin)」は今日、要人の暗殺を手がける人物を指す言葉として、ゲームの名前にも使われるほど定着しています。
では歴史上、アサシン(暗殺者)がいつ、どこで生まれたのかはご存知でしょうか?
アサシンは元々、11世紀のイラン北部に出現したイスラム教の”暗殺教団”を指す名称として誕生しました。
そして、この暗殺教団の誕生の背景には、イスラム教における複雑な分派争いが絡んでいます。
ここでは、暗殺教団の形成から、その生みの親、「アサシン」という名称の由来まで、順に説明していきます。
目次
アサシン誕生にいたる「イスラム教の分裂」の背景
暗殺教団の生みの親「ハサン・サッバーフ」とは?
アサシン誕生にいたる「イスラム教の分裂」の背景
西暦610年、預言者ムハンマドが神の啓示を受けて誕生したイスラム教は、632年になって最初の分裂に直面します。
ムハンマドの後継者に誰を据えるべきかで争いとなり、イスラム教徒は、少数派の「シーア派」と多数派の「スンナ派」に分裂します。
それから9世紀に入り、シーア派の中で再び、指導者に関する論争が勃発しました。
結果として、イスマーイールという人物を指導者として支持するグループが、シーア派内部で分裂し、独自の「イスマーイール派」を作ることになります。
のちにイスマーイール派は、エジプトのカイロを首都とするファーティマ朝を建国して、支配するまでに成長します。
ところが、11世紀の終わり頃、ファーティマ朝を統治していた指導者が亡くなった際、その息子である2人の兄弟の間で後継者争いが起こります。
本来は、兄のニザールが後継者として有力でしたが、これを退けて、弟のムスタアリーが指導者として即位するのです。
その後、ニザールは処刑されてしまいますが、彼を支持していたグループがペルシア(現イラン)に逃れ、そこでイスマーイール派からさらに分派を形成します。
これが「ニザール派」です。
そして、このニザール派の最初の指導者となったのが、ハサン・サッバーフという人物でした。
このハサンこそ、アサシン(暗殺教団)の生みの親と言われているのです。
暗殺教団の生みの親「ハサン・サッバーフ」とは?
ハサン・サッバーフ(?- 1124)は、今日のイランの首都テヘラン南部にて、十二イマーム派(シーア派の一派)の家に生まれました。
ハサンは、早い内から様々な学問に強い関心を抱き、17歳ごろまで数学や天文学、言語学や哲学などを研究していたという。
この間に、彼はイスマーイール派と接触し、その教義に感化され、信徒となっています。
のちハサンは、ペルシア国内を広く巡り、布教のための拠点を探す中で、イラン高原にあるアラムート城を占領。
この高地を拠点としたことから、ハサンは「シャイフル・ジャバル(山の長老)」と呼ばれるようになりました。
そして11世紀末に、先述したファーティマ朝の後継者争いの中で、ニザール派が誕生すると、その最初の指導者として即位します。
ニザール派は、山中を拠点とする秘密主義を通し、「退廃的な異端者」として非難され、スンナ派だけでなく、同じシーア派からも毛嫌いされていました。
彼らを潰そうとする多くの敵に取り囲まれたニザール派の人々は、生き残るための行動を取らなければなりませんでした。
ハサンは、戦闘術に優れた戦士を選抜、育成し、これを「フィダーイー(=自己を犠牲にする者たち)」と名付けます。
しかし、少数派の彼らが、まともに大勢の敵とぶつかっては勝ち目がありません。
そこで、ハサンが採用した方法が、特定の要人をピンポイントで消す「暗殺術」だったのです。
敵地への潜入から拷問、暗殺、自死の心構えまで、あらゆる訓練を受けたフィダーイーの戦士は、敵に多大なる恐怖を与えました。
この暗殺集団の噂は、同時期に聖地エルサレムの奪回に来ていた、キリスト教徒の十字軍の間にも知れ渡ります。
実は、アサシン(暗殺教団)伝説が西洋から世界に広まるきっかけは、ここにありました。