飯山陽先生の新著「イスラム教再考 18億人が信仰する世界宗教の実相」を読むと、イスラム研究がそもそも研究の枠を飛び越えて、おかしな方向に向かっているという疑念が湧きあがります。日本のイスラム研究者は、イスラムは「平和の宗教」で、テロや女性・マイノリティの抑圧は例外で「ほんらい寛容な宗教」といった「通説」を唱えています。イスラムを極度に理想化して、西欧でのイスラム教徒の増加が、治安の悪化や社会の解体を招いた現実を隠蔽しているといいます。

研究者のコミュ力不足で研究対象が歪む?「イスラム教再考」飯山陽
(画像=mazzzur/iStock、『アゴラ 言論プラットフォーム』より 引用)

研究対象を神聖化する研究者たち

ビジネスをやっていると、同郷だから、○○大学出身だから、イケメンだから、美女だから、話が理路整然としているから、といった表面的な属性で信用して投資をすれば、詐欺に引っかかる可能性が非常に高いと思います。

けれども、大学の研究というものは、研究対象を神聖化して、至高の善にまで高めてしまっているようです。狩猟時代は平等だった、江戸時代はよかった、明治維新はすばらしかった、とか。とくにイスラム研究の分野はそれが顕著なようです。

飯山先生の言っていることは、イスラムうんぬん以前に、「人をみる眼」としてしごくまっとうです。「属性だけで人を判断するとたいへんなことになる」ただこれだけです。しかもその属性を見る眼にもバイアスがかかっています。

リベラルなイスラム観はどこから?

私はとおい昔の学生時代に板垣雄三先生のお話を聞く機会がありました。板垣先生は東京大学名誉教授で日本のイスラム学の大家です。たしかに講義では「イスラムとは平和という意味で、ジハードはテロではなく努力という意味」というようなことを聞きました。当時の青臭いリベラル青年だった私は「イスラムの人々はみんな優しいんだ!悪いのは欧米諸国なんだ!」と打ち震えたものです。また、板垣先生の影響力はとても大きく、研究者の多くはこのような理解だそうです。

私個人の中ではその後、(イスラム・ロシアの専門家の)保守的な先生の指導を受けることによって、認識の若干の揺り戻しがありました。