邪馬台国近畿説の論客である寺澤薫氏の『弥生国家論』(敬文舎、2021年)と『弥生時代の年代と交流』(吉川弘文館、2014年)を読んだ。
寺澤氏は一般的な近畿説と異なり、「倭国乱終息=卑弥呼共立は210年頃」「卑弥呼共立=ヤマト王権成立」であり、「卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく倭国の女王」としていることが特徴である(表1)。
近畿説の最大の論点は「纏向が3世紀かどうか」である。纏向を発掘・調査した関川尚功氏は「箸墓古墳の造営が始まり、纏向が最も拡大化するのは4世紀」だと述べている(『畿内ではありえぬ邪馬台国』(梓書院、2020年))。
纏向が4世紀ならば、近畿説は土台から崩れる。寺澤氏の説を中心に、近畿説の「纏向は3世紀」の根拠を検証してみたい。
考古学では四半期の幅で実年代を特定できない
寺澤氏は現時点の科学的年代測定(炭素14年代測定など)には懐疑的で、従来からの考古学的手法を根拠とする。年代の推定できる中国からの輸入品の出土を根拠とする手法である。纏向にあるホケノ山古墳は3世紀中頃、箸墓古墳は3世紀第3四半期後半だとする。
弥生中期後半以降の実年代は中国で制作され、日本で副葬された「漢鏡」が根拠にできるとしている。中国で副葬される漢鏡には、年号が刻まれていて製作年代が推定できたり、年号のある墓誌などが共伴されて副葬年代が推定できるものがあるからである。
寺澤氏は漢鏡の製作年代から日本での副葬年代まで2~3世代(半世紀程度以上)のタイムラグを見込む。その理由として、漢鏡の流入には楽浪郡の介在があったこと、外交は恒常的に間断なく行われたとは限らないことを挙げており、私もそのタイムラグ感に違和感はない。
寺澤氏の纏向の年代の根拠は、ホケノ山から出土した画文帯神獣鏡である(表2)。
- ホケノ山では画文帯神獣鏡が2面出土した。完形鏡(A鏡)と破鏡(B鏡)である。
- A鏡は「同向式」であり、B鏡は上野祥史氏によって文様と銘文から「四乳求心式」と特定された。
- 上野氏により、A鏡は3世紀第1四半期の製作、B鏡は3世紀中頃でも前半(230~250年)の製作と推定できる。
- タイムラグを経て副葬されたとして、ホケノ山は3世紀中頃となる。
ホケノ山の実年代はB鏡がカギを握る。上野氏は、四乳求心式は頂点を極めた前段階の神獣表現が退化し、配置の規則性も崩れた模倣鏡とし、B鏡の製作年代は文様から3世紀中頃でも前半(230~250年)としている(「ホケノ山古墳と画文帯神獣鏡」、2008年)。
これを受けて、寺澤氏は「ホケノ山古墳を三世紀中頃に置く年代観はほぼ足並みをそろえたものと見てよいように思われる」と述べる(『弥生時代の年代と交流』)。しかし、寺澤氏は中国での製作年代と日本での副葬年代にタイムラグを見込んでいるのだから、B鏡の製作年代が3世紀中頃なのに、ホケノ山も3世紀中頃とするのは整合性がない。ホケノ山は第4四半期以降が適切ではないか。
日本での副葬までのタイムラグは様々だったと考えられ、考古学では実年代を四半世紀の単位で特定できない。寺澤氏は「たかだか(魏志倭人伝の)二〇〇〇字足らずの漢文にのめり込むほど、自説に有利な思い付きと解釈はつぎつぎと再生産される」(『弥生国家論』)と文献学を揶揄するが、様々な解釈が生じるのは考古学も同じである。