入社して初出勤

筆者は結局大学の掲示板に掲載されていた大阪立売堀にある因幡電機産業に採用された。そこが唯一採用してくれた会社だった。海外営業部で勤務することになった。

当時の因幡電機は350名の会社だったが、今は一部上場で連結で2500名の会社に成長している。そこで2年半ほどお世話になった。採用された時は独身で、初出勤した時は妻帯者がいるという変わり者だった。家内とは大学を卒業する前にバレンシアで挙式を挙げた。

大学の卒業式にも家内は参観者として出席した。私が卒業式には出席しないと教授会で誰かが言ったらしく、出席しない卒業生にメキシコ大使館賞を授与するのは意味がないということで、結局私のクラスメートの一人が授与することに決まった。

家内が外人ということで初出勤した時から社内で噂になり社長の耳までそれが伝わった。その時から当時の川口社長とは彼が亡くなるまでお付き合い戴いた。入社して僅かしか経過していなかった時に、社長宅に家内一緒に招待されて家内に何か困ったことでもあれば何なりと言ってくれと言われたあの高配には今も感謝して忘れないでいる。

社長は文化人でもあり水墨画がうまい人で、彼の作品はギャラリーでも展示されたりしていた。筆者は彼の作品を今も色々もっている。また彼の絵画は筆者の仕事部屋に今も飾っている。

勤務していた期間はペルーからの電力に関係した入札に応札するための仕事やスペインの電話公社に関係した仕事を担当していた。ペルーに輸出していたのは電線に使う碍子が主だった。スペインには電話回線につけるアレスタ(避雷器)を輸出していた。

また新規市場を開拓するのに当時は良く商工会議所に行って外国からの引き合いをチェックしたりしていた。今ではそのような無駄なことはしない。しかし、当時はまだそのようなことをして新規の客を探していた時代もあったのである。

わたしがスペインで事業を起こすためにしたこと
Eloi_Omella/iStock(画像=『アゴラ 言論プラットフォーム』より 引用)

スペインで事業を起こすために退職

そのような仕事をして2年半が経過した時点で唐突だったが部長に退職願いを提出した。彼にとっても予期しなかったことであった。しかし、筆者はスペイン・バレンシアに戻って企業を起こしたいと望むようになっていた。

日本でそれをやるよりも、スペインの方がまだ隙間があるし、飯が食えなくなっても家内がスペイン人ということで、しかも家内の両親が当時バルを経営していたので、仮に事業がうまく行かなくても何とか飯は食って行けると思っていた。

当時はスペインに行っても具体的に何をするのかというプランはもっていなかった。唯一、明確だったのは商社をつくりたいという願望だけだった。

当時、日本の書店で「海外で成功する方法」とか「ワンマン商社」といった海外貿易を謳歌する本が数冊販売されていた。その中から3-4冊読んだ。あの当時は気づかなかったが、自分で事業を経営するようになって分かったことは、例えば、1年に1回の注文を貰うのと、ひと月に1回の注文を貰うのとでは経営を維持するという面では運泥の差があるということだ。

その説明がこれらの本では一切明確にされていなかった。所詮、これらの本の著者は貿易というのを副業としていたからそれで飯が食えなくても本業で飯が食えたのである。その意味ではこれから本業として貿易事業に取り組もうとしていた若者にとっては無責任な本であった。