「もう欲しい物がない」

このような感覚に陥っている人は、意外と世の中にいるのではないだろうか。欲しいものはすでに買い揃えており、会社員としても先が見えた。小金は溜まっているが、流行りに飛びつくほど若くはない。独身なのでお金を注ぐ場所を見失ってしまった…。概ね、このような感覚だと推察される。

消費に飽きた人は、残りの人生で何をすればいいか?
(画像=eggeeggjiew/iStock、『アゴラ 言論プラットフォーム』より引用)

欲しい物がなく、人生がつまらない人は今後どのようにして生きればいいか?その解を考察したい。結論を先に言えば、余暇時間を「創作意欲」にあてることで、真に望む全てが手に入ると思っている。

消費欲は必ず飽きる

最大公約数的な解として、人が消費に飽きるタイミングは「30代から40代」と考えている。人心交流が苦手な人はそのタイミングの到来は更に早いだろう。

実際、質問掲示板などでも「とりあえず老後までしのげそうだが、欲しい物もないため人生が退屈」という書き込みはいくらでも出てくる。それに対する解として「新しい趣味を作る」といった、別方向からの消費活動の提案がなされていたりする。だが、これは根本的解決にならない。相談者の悩みの本質は、受動的な娯楽に飽きてしまっているため、新たに別の消費物をあてられたところで飽きてしまうのは時間の問題でしかない。

現代社会は消費意欲が枯渇しやすい環境が整っている。食べたいものはおいしく安く手に入る飽食、むしろ「いかに食べすぎないか?」が鍵である。また、動画やアニメ、ゲームなどもフリーか格安で非常に良質なものが手に入る。さらに、周囲に見せびらかしたいと考え、思い切って購入していた高級ブランドバッグも、あちこちで格安でレンタルが提供されているため、もはや所有する意味合いはなくなってしまった。

消費はいつか飽きるものと考えるべきだろう。

次にやってくる承認欲求も飽きる

一通り、消費を堪能した人が次に迎えるのは、「承認欲求」の段階だ。

承認欲求を満たす方法にはいくつか種類がある。アスリートが努力を結果として出して称賛される、という健全なケースもあれば、単にお金を使って周囲に自慢し、注目を浴びたいという原始的な欲求もある。そしてほとんどの場合は後者である。ある程度、蓄財が進むとそれを勝利のトロフィーのように人に、「誰かに見せびらかした」いという欲求を持つ人は少なくない。SNSに投稿して自慢するためだけに高価なホテルに泊まったり、買い物をするという人もいる。節税スキームや、不動産価値の保持としての意味合いを除き、タワーマンションに住んでいるのは「自慢したいから」という人も存在するのではないだろうか。

だが、人生経験を経て哲学の理解が進むほど、この段階も卒業を迎えるタイミングがやってくる。自慢を続けている内に、自分がやっている行動には一切の本質的メリットがないことに気づいてしまうからだ。人に自慢をすると、大抵の場合は相手から嫉妬や反感を買うことになる。表面上は「すごいね」と返してくれても内心から尊敬の念を送る人は少数派だ。

よしんば、最初の数回は本当に驚いてくれたとしても、自慢が続けば聞いている側もいい加減疲れてしまうし、フレッシュな反応を見せなければいけない強迫観念の方が圧倒的に支配的になる。「自慢ばかりしてくるこの人は面倒くさい」という感覚になり、そのうち「自慢しないと自我が保てないとは、心が貧しい人だな」というネガティブな印象すら持たれてしまいかねない。そうなると「相手から尊敬されたい、認められたい」という本来の願望は叶えられることがなく、むしろ相手から哀れに思われてしまうという、真逆の結果をもたらす。