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“喜んでくれる人がいる”それが僕の音楽に向かう原点
サッカー選手への夢を捨て、14歳でプロのピアニストを目指した
【プロフィール】ピアニスト 反田恭平
1994年生まれ。東京都出身。4歳で音楽教室に通い始め、中学生時代から国内の数々のコンクールで1、2位に。桐朋学園大学音楽学部を経て2014年にチャイコスフキー記念国立モスクワ音楽院、2017年にポーランドのF.ショパン国立音楽大学研究科に入学。2018年からは室内楽や自身が創設したジャパン・インターナショナル・オーケストラのプロデュース・指揮者を務める。2021年の第18回ショパン国際ピアノコンクールでは、日本人として半世紀ぶりの2位入賞。海外での活動も多数。
“喜んでくれる人がいる”それが僕の音楽に向かう原点

5年に一度のショパン国際ピアノコンクール。コロナ禍により2020年から延期された2021年10月の第18回、反田恭平さんの2位入賞に日本のマスコミは大いに湧いた。1970年第8回で2位となった内田光子さん以来の快挙だ。
TVやネットで聴くカラフルで深みのある音色には多くの人々が魅了された。コンサートではいまや最もチケットが取りにくいピアニストである。
最初に鍵盤に触れたのは4歳。母が“ママ友”の誘いで音楽教室の体験入室に連れて行ってくれたのだ。その時はエレクトーンだった。
「先生が出す音を当てるクイズとかもあって、僕は少しずる賢くて、目隠しした指の間から見ながら答えていたのですが、この子は天才だ!なんて言われて、すっかり母も信じてしまった感じでした。最初はズルしていましたが、後々、気づいたら3つ4つの和音から最終的には11の音まで聞き分けられるようにはなっていました」
転勤の多い家庭だった。幼稚園の年長から東京へ。教室の先生は東京でも音楽を続けるよう言ってくれ、絶対音感を鍛えることで知られるスクールに入った。
初日、たまたまついてくれた先生は、好きだったタレントのなすびさんそっくり。
「“なすびさんに教えてもらえる!”って大興奮でした。とにかく自由に弾かせてくれ、ほめてくれる先生でしたので、とても楽しかったです」
スクールでは、耳を鍛えること、ピアノ、それにミュージカルなども体験。特にミュージカルは大好きだった。
ピアノのレッスンも少しずつ増やした。新しい楽曲を弾くと、先生も友達もとてもほめ、喜んでくれる。
「演奏すれば誰かに喜んでもらえる。それが、今に続く僕の原点なんですね」
サッカー選手への夢を捨て、14歳でプロのピアニストを目指した

とはいえ、当時はピアニストを目標にしていたわけではなかったそうだ。練習もさほど熱心ではなかった。実は反田さんはサッカー少年でもあったからだ。
サッカーを始めたのは2歳。なんとその2歳で、幼稚園チームの年上も率いてキャプテンを務め、ドームサッカー場での試合にも臨んだというから驚きだ。
「みんなで何かをするのがとにかく好きな子供でした。東京では地元のクラブチームに入り、ミッドフィルダーやフォワードをしていました。リズム感がいいから相手をよくかわすと言われていました」
チームメイトにはやがてユース代表に選ばれたり著名クラブチームに入った人も多い。サッカー選手になり、ワールドカップに出るのが夢だった。それでもピアノも続けていたのは、自分の感情をそのまま表現できる手段で、ピアノが好きだったということもある。
友達や家族とケンカをしても、鍵盤に向かっていると素になれる。感情の引き出しが増えるたび、音色も増えていく。それが楽しかった。
「リリカルで色彩感があって……これがショパンかーと。こういう華やかな曲はもともと好き。音数が多くてキラキラしていますよね。で、小学3年生から1年くらいショパンをいろいろやって『幻想即興曲』まで弾けるようになりました。4年生で手が大きくなってからはリストもよく弾いていましたね。週末はサッカーの試合が終わったらCDショップに行って視聴し、覚えて帰って弾くんです。ネットでは世界一難しいピアノ曲を調べてリストの『超絶技巧練習曲』を知り、6年生までに弾けるようになろうと目標を立てました」
しかしサッカーとの両立は5年生で終わる。ワンパクでケガの多い少年ではあったが、サッカーで2度目の手の骨折。指の骨が粉々になって手術を受け、1年近くサッカーもピアノも出来なくなった。その日々、自分はどちらがやりたいのか改めて考えた。
サッカーでどこまで行けるか、そして骨折して痛い職業は無理ということもあり、音楽の道に進む決意をする。高校進学で音楽高校に行くために、父親には反対され、ピアノが弾けるという証明をしろと言われ、受けられるコンクールで1位を取るべく必死になった。
音楽高校への入学も許可をもらったが、その時、「1位になったこらこそ見える景色があるだろう」と言われたことは今ではとても理解できる。
18歳で受けた日本音楽コンクールで男子最年少で1位になり、さらに注目が集まる。その時に副賞でレッスンしてくれた先生に呼ばれて2年後、ロシアへと渡った。