リタイヤなんて目指すものじゃない

「投資を成功させて悠々自適に自由に生きる」

「起業して働かずに生きていこう」

などを理想をする現代人がいる今、働かないというのは「資本主義社会の勝者」であるような見方がなされることもあるだろう。生きるために働かざるを得ない人からすると、「働きたくなければ働かなくていい」というオプションは光り輝いて映るに違いない。

だが、人間は社会的な動物だ。人は他の人の存在自体に依存している。人は一人では生きられない、というのは物質的であるのと同時に、心理的な理由にも寄るのである。「自分の価値」という自己肯定感や「承認欲求」といったものも他者比較という相対的評価によって実現しうるもので、つまりは他者の存在がこの心理を生み出している。

働かなくなり、社会との接点を失った人がいきなり無条件に幸せになれるほど、人生と人の心理はシンプルではないと思うのだ。

リタイヤを楽しむのは才能が必要

セミリタイヤといっても、労働の度合いにもよるし、どう捉えるかによって異なるかもしれない。だが、リタイヤという言葉は、筆者にとってある種人間が本質的に持つ「社会性」を否定するように感じるのだ。

つまりは社会から自身を切り離し、ひっそり生きるに等しい。これを楽しむのは普通の人には難しいだろう。コロナの自粛で引きこもりを余儀なくされ、それによってDVや鬱などの問題が噴出している辺り、「引きこもることにも才能が必要」なのは明らかだ。

筆者は今回、実際にやってみてそれを理解した。初日は「悪くないな」と思った。だが、2日目にはすでに少し嫌気がさしてきた。余暇というのは「なにかに一生懸命打ち込んで、それ以外のゆったり過ごす時間」として初めて意義がある。1日のすべてが余暇というのは、筆者にとって人生の生きる意義をすべて奪われ、自堕落に過ごすだけのように感じたのだ。

よく「いつまで働かなくてはいけないのだろうか」とため息を付く人を見ることがある。だが、そうした人もいざ究極の退屈に落とされれば、耐えきれずに働きたくなるはずだ。筆者はこうした意見を聞くたびに、「逆にいつまで働いて社会で現役プレーヤーであり続けられるか?を憂慮すべきではないか」と思うのだ。

文・黒坂 岳央/提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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