日本を代表するロックバンド「ASIAN KUNG-FU GENERATION」のフロントマンとして活躍するVo.の後藤正文さん。メンバーとは大学の軽音楽部で出会いバンドを結成し、インディーズ時代から名だたるロックフェスに出演してきた。2003年には満を持してのメジャーデビューを飾り、その後の快進撃は周知の通りだ。3月12、13日には結成25周年を記念したスペシャルライブ「ASIAN KUNG-FU GENERATION 25th Anniversary Tour 2021 Special Concert “More Than a Quarter-Century”」が行われたばかり。耳の肥えたオーディエンスを熱中させる、その原動力はどこにあるのか——。
目次
子供の頃はどこにでもいるような野球少年だった
心揺さぶられるほど衝撃的だった音楽との出会い
【プロフィール】ASIAN KUNG-FU GENERATION 後藤正文
1976年生まれ、静岡県出身。ASIAN KUNG-FU GENERATIONのボーカル&ギター。新しい時代とこれからの社会を考える新聞『THE FUTURE TIMES』の編集長も務める。インディーズレーベル『only in dreams』主宰。ASIAN KUNG-FU GENERATIONとしては約4年ぶりとなる10thアルバム『プラネットフォークス』が2022年3月30日にリリース。5月28日より同アルバムを携えた、ASIAN KUNG-FU GENERATION Tour 2022「プラネットフォークス」を開催予定。
子供の頃はどこにでもいるような野球少年だった

子供の頃はスポーツ少年でソフトボールや野球に夢中でした。サッカーのイメージが強い静岡県の出身ですが、案外、現地では野球も盛んで他の都道府県と同じように野球に熱中する子供も多かったです。もちろんサッカーは小学生で選抜があるくらい盛んで、“選ばれし民のスポーツ”といった感じでしたね。
僕は親の影響もあって野球派でした。父が野球好きで、すんなり野球に入りましたね。父は巨人が好きでテレビで毎日ナイターを見ている家庭でしたよ。地元に球団でもあれば別だったんでしょうけど、あの時代はテレビの影響で田舎に住んでる人は巨人ファンが多かったんじゃないですかね。友達に大洋ファンがいて、その子と一緒に何度か大洋の試合を観に行ったこともあります。
今も野球は好きです。さすがにやりはしないですけどね、もう高校野球までみっちり一生分やったので。当時のポジションですか? ベンチです。特に高校野球はベンチを守ってました。中学の時は最初ライトでレギュラー、次にサードのレギュラー。高校に行ってからはサードやセカンド、内野を転々としましたけど、最終的にはベンチ。ポジションはあるけど試合には出てなかったですね。高校野球でレギュラーを取るのは難しいし、中学の時に比べたらあんまり真面目な生徒じゃなかったですしね。まぁ、仕方ないかなと思います。
心揺さぶられるほど衝撃的だった音楽との出会い

音楽を本格的に始めたのは高校を卒業してからです。中学の時に多くの男子学生が通るように一度ギターに憧れを持って、父のアコースティックギターを借りてみたんですけど、なんか指が痛くて。「こんな痛いんだ、ギターって!」と思ってそこで一度断念して、音楽って本当に選ばれた人たちがやってるんだなぁって思ってました。コードのFを押さえる以前にAで指が痛かったので「これは無理でしょ」って。でも今になって考えたら父のギター、ネックが反っていたんで弦高が高くて痛かったんだなと。もうちょっとまともなギターなら続いていたかもしれないですね。
その後、大学受験に失敗して東京で浪人していたんですけど、その時に友達から借りたCDがめちゃくちゃ良くて。中学生の頃に奥田民生さんに憧れた時とは違った波が押し寄せてきちゃって、「これちょっとやっぱり音楽やってみたいな」と思っちゃって。それでギターを買いに行きましたね。
友達から借りたCDはオアシスの1st「Definitely Maybe」、ベックの「Loser」、ティーンエイジ・ファンクラブの「Bandwagonesque」っていう3枚。それが全部良くて、すごく音楽をやりたくなりました。当時、中でもオアシスにすごく憧れて、地方都市のチンピラみたいな人たちがイギリスNO.1バンドになっていくっていうストーリーも良かったし、スコアを見たらめちゃくちゃ簡単なコードで曲を作っていたんですよね。本当にシンプルなアイデアと才能で突き抜けてる、みたいなところに感情移入したというか。ワーキングクラスの育ちが良いわけでない、いわゆる“持っていない人たち”が……というところに、シンパシーじゃないけどエネルギーをもらったというか。生まれながらに文化資本に恵まれているわけじゃない人たちがやるっていうところにカッコ良さ、パンクに近いような社会に対する“復讐”じゃないけど、それに近しいエネルギーを感じて燃えましたね。
ニルヴァーナよりも持っていかれたというか。ニルヴァーナがブレイクした頃って僕はまだ田舎にいたので、退廃的な感じって田舎じゃわからなかった。「絶望的」って言ってる場合じゃないくらい田舎というか。ここで絶望したら本当になんにもない、みたいな。なのでニルヴァーナの良さは東京に来てからわかったんですけど、それに比べてオアシスは一発でわかった。すっごいカッコイイって思いましたね。
その後、バンドを結成。そして大学を無事に卒業しました。卒業後は就職して会社員に。本やカレンダー、絵葉書などを主に扱う出版物の会社に就職して、文房具店や書店、美術館を営業で回っていましたね。2年くらいサラリーマンをして辞めました。バンド活動は社会人になっても続けていて、気がついたら25歳に。「このくらいで誰かに見つけてもらえないんだったら潮時かな?」と思ってた時にインディーズの契約が決まったり、自分たちで作って送った楽曲がラジオでかかったり賞を取ったりしたのがきっかけですね。後悔しないように、ちゃんと取り組んでダメだったら仕方ないから、ということで脱サラしてデビューに向かっていきました。