未知なる月の裏側
小学生の理科の授業で、私たちが普段地球から見上げる月はいつも同じ面しか見せていないという事実を知って衝撃を受けた思い出はありませんか?月が地球を1周する間に、月も1回転しているため、普段私たちは月の表側しか見ていません。1959年10月7日、世界で初めて月の裏側の写真撮影に成功したのはソ連の月探査機ルナ3号でした。このミッションにより、縮尺500万分の一の月面図が製作されました。

Credit : NASA、『宙畑』より引用)
当時、ソ連で発行された記念切手を見てみましょう。切手の外枠には「惑星間ステーションから撮影した月の裏側」と書かれています。月の裏側の地形に「モスクワの海」や「夢の海」が新たに命名されました。また、クレーターの名称には、「宇宙旅行の父」と呼ばれる「ツィオルコフスキー」、マリー・キュリー夫人の娘の夫で人工放射性同位元素の合成でノーベル化学賞を受賞した「(フレデリック)ジョリオ・キュリー」の名が付けられています。(*6)キュリー夫人の発見したラジウム鉱石の放射線研究のおかげで、ノーベル物理学賞を受賞した科学者ヴィクトール・フランツ・ヘスは宇宙からやってくる放射線、つまり宇宙線を発見しました。人が宇宙に滞在する際、宇宙線による放射線被ばくは避けられません。切手のクレーター名を確認することで、どのような科学的功績が強調されているか伝わってきますね。

Credit : (左)Cherrystone、(右)sorabatake、『宙畑』より引用)
アメリカの月面着陸に向けた準備
人類が月に進出することが本格的に検討されるようになると、NASA、空軍航空図情報センター(ACIC: U.S. Air Force Aeronautical Chart and Information Center)、陸軍地図局(AMS: Army Map Service)、アメリカ地質調査所(USGS: United States Geological Survey)などの協力体制のもと、組織的に月の地図の製作が行われるようになりました。写真測量法による月面図の作成は1878年、J. F. ユリウス・シュミットによって大きく進展しましたが、無人探査機を月に送ることで地図の精度もどんどん向上していきました。探査機のみならず、アメリカのアリゾナ州にあるローウェル天文台の火星観測用の屈折望遠鏡(口径60cm)なども月に向けられ、月観測専用の望遠鏡も建設されました。(*3)アポロ計画では月の地形図に加え、地質図や重力分布図など、さまざまな投影法、縮尺、区画、等高線の間隔で月の地図が作成されました。
ソ連は1959-1976年にわたって、「ルナ計画」と称して24機の無人探査機を月に送りました。一方、アメリカは月の地図製作と地質調査などを目的に、月に衝突するまでの写真を撮影する「レインジャー計画」、月面に軟着陸する「サーベイヤー計画」、月を周回する「ルナ・オービター計画」を実施しました。無人探査機の月面への軟着陸が成功したのは、ソ連は1966年2月のルナ9号、アメリカは同年8月のオービター1号でした。月着陸船を設計する上で、軟着陸で月面の物理的特性を把握することはとても重要でした。
ルナ・オービター計画は、写真データの他にも、月の重力分布、隕石、放射線などのデータを技術者や科学者に提供しました。月の重力分布の観測データが得られたことにより、今までは月面図で地球から見た月面の中心に座標系の中心を合わせていたものを、月の質量の中心に結びついた座標系が用いられるようになったことが大きな変化でした。
アメリカの月探査機とその成果の表をご覧ください。失敗と成功を繰り返しながら、七転び八起きで計画が進められていたことが伝わってきますね。

写真を使った月の地図づくりの難しさは、写真の明るさが撮影日時によって異なり、地形の勾配が判断できないことにありました。この課題に対して技術者は、コンテストを開催したり、測光学を取り入れたりすることで改善していきました。
アポロ計画において、月の写真地質図作成で大活躍したのが地質学者ユジーン・シューメーカーです。彼はアポロ計画に携わる前、隕石や核実験でできたクレーターの研究をしていました。アポロ宇宙飛行士の候補者でもありましたが、残念ながら健康上の理由で月に行くことはありませんでした。しかし!亡くなった翌年、彼の遺骨は米月探査機ルナ・プロスペクターによって月に置かれたのでした。偉大な功績を残し、意外な方法で夢が叶い、月に辿り着いた稀有な人物です。(*8)

Credit : AIRSPACEMAG.COM、『宙畑』より引用)