みなさんこんにちは。歴旅ライターまえてぃーです。
今回ご紹介したい場所は「知覧特攻平和会館」です。太平洋戦争末期、日本軍は連合軍に追い込まれていました。その時、兵力が減少している中で戦果をあげるには爆弾を抱えたまま敵に体当たりするしかないという作戦が生まれました。それが「特攻(特別攻撃隊)」です。
特攻にはいくつかの種類がありますが、今回ご紹介する知覧特攻平和会館では、飛行機に爆弾を乗せ体当たりをする「航空特攻」で散っていった若者たちが残した手紙や日用品、写真などが資料として展示されています。そしてその犠牲となった多くが、まだ20歳前後の若者でした。
目次
特攻作戦に至る経緯
1941年12月8日、日本がアメリカの真珠湾に攻撃を開始したことから太平洋戦争は始まりました。
最初は優勢だった日本ですが、次第に防戦一方となりました。1945年になると日本の本土全域が空襲を受けるようになり、苦戦を強いられていました。
アメリカ軍が沖縄上陸目前にまで来た時、なんとしても沖縄(日本本土)を守らなければならないという日本軍がとった作戦が「特攻作戦」でした。作戦決定、決行に至ってはもちろん賛否がありました。しかし追い込まれた日本は、この搭乗員は必ず死ぬ、という「必死作戦」を決定しました。
知覧特攻平和会館
知覧特攻平和会館は鹿児島県知覧にあります。そして、この平和会館がある場所は、もともと特攻隊の出撃基地があった場所です。

<知覧特攻平和会館の正面入り口>

知覧特攻平和会館は写真撮影ができません。しかし、写真を撮るよりも、心のシャッターをしっかりきろうという気持ちが出てきます。なぜなら、そこに並んでいるのは散っていった大勢の若者たちの顔写真。
17歳から32歳までが特攻に参加し、命を落としました。平和会館には顔写真(遺影)の他に、家族や恋人に宛てた手紙(遺書)、送られた寄せ書き、自分で書いた「突撃」「必死」「撃墜」などのハチマキなどが資料として展示されています。
ぜひ時間をとって、じっくりと見つめてみてください。お1人お1人の手紙には本当に胸を打たれるものがありました。
恋人に「私は過去の人、あなたは未来に生きるのだから私のことは忘れてください」。母親に「これが最初で最後の親孝行です」「泣かないでください、喜んでください」または「泣いてくれていいです、私もアメリカ兵の母親を泣かすのです」。子どもたちに「(読めるようにカタカナで)父は姿こそ見えないがいつもお前たちを見ている」。
どの方も、覚悟はされていたと思います。けれど、生きていれば、戦争が無ければ、違う未来がきっとあったはず、と思わずにはいられませんでした。

これは「三角兵舎」と呼ばれ、隊員たちが出撃するまで起居する場所です。

この中で隊員たちは寄せ書きをしたり最期の語らいなどをして過ごしました。