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では、そのまた先の「労働」の本質とは何であろうか。人間という字の成り立ちを説くまでもなく、元来、人類は一人では生きられない。現代社会を眺めると、オンラインで会社から与えられるノルマをこなし、一人暮らしをして自炊をして、時に政府からの無機質な支援を得て暮らすことが可能であり、一般的になりつつあるようにも見える。しかし、これまた古くて、実は新しい現実を見れば、ウェルビーイングとは、人との関わりをベースとした心の持ち方と深く関連している。
親が子のためにせっせと家事をこなし、風呂に入れて食事や弁当を作るなど、相手を思いやってサポートする労働は尊い。日頃お世話になっているからと、山田さんが佐藤さんに自家製のじゃがいものおすそ分けをし、逆に佐藤さんは山田さんに、庭で取れたイチゴをベースにせっせとこしらえた自家製のジャムをお返しする。こうした労働のベースにあるのは相手への思いやりであり、人を想う心だ。
「人のために尽くせ」とは、最近は聞かれなくなった日本人が大事にしてきた言葉だが、労働の本質を言い表した歴史・社会の知恵とも言える。
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本来オリンピックで外国人が大挙して押し寄せるはずだった東京から「ワーケーション」で脱出することや、コロナというパンデミックから逃れるために都会から地域に移住すること、或いは、首都直下型地震などの災害リスクから逃げること。これらは、自分の身を守る行為としては、素晴らしいことだ。人であふれかえる無機質な都会の生活から逃れて田舎に暮らすことは、人間としてある意味当然かもしれない。
しかし、こうした行為は、消極的に自由を得る作用とも言える。憲法学などでは良く、自由は自由でも、freedomとlibertyとを分け、前者を「~からの自由」と名付ける。隷従などの束縛から解放されるという基礎的な人権としての自由である。一方、後者は、積極的に関与するという意味で、「~への自由」と定義される。政治に関わる自由、社会にコミットする自由などである。
上記のような「~から逃れる自由」としてのワーケーションを「ワーケーション1.0」とすると、2022年から希求されるべきは、「~に関与する自由」としての「ワーケーション2.0」であるべきだ。すなわち、喧騒を脱して風光明媚なところで、バカンスを半分楽しみつつ、効率良く仕事をするというレベルから、地域コミュニティに溶け込みながら地域の課題に対して一緒に汗を流すとか、地域の趣味などのコミュニティに積極的に参加して、その維持・拡大を目指すなど、人間関係、他者のために、ということをより強く意識する必要があると思われる。
そうした「関与(コミットメント)」を中心とした地方との関わり合い、流行の言葉で言えば、関係人口構築こそが、地方創生2.0に求められる姿であり、これまでの地方創生1.0とは分けていく必要があると考える。つまり、「人口減少に歯止めがかからない」「消滅してしまう」という危機感に惑わされ、無機質な数字としての人口をどう増やすか、ということにあくせくする地方創生1.0からの脱却である。
国全体の人口減少に歯止めがかからない中、無暗に各地で人を奪い合っても仕方ない。たとえ人数は1名でも、その1名が、色々な地域の色々なコミュニティに関与することで、一人一人が相手や他者を感じ・思うことで、地域も当該人も質的に潤うという方向を目指すべきだ。
そうした想いや努力の先に、アダム・スミスが大切にした価値観をも包含する資本主義2.0があるような気がしてならない。
文・朝比奈 一郎
文・朝比奈 一郎/提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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