2022年がスタートした。

改めて書くまでもないが、あと200年後の2222年は別として、当面は、これ以上2が並ぶことはないというくらい、珍しく2が並ぶ年である。勝手な期待としては、「2.0」という名の新たな息吹がアチコチで芽生えて欲しいと願いたくなる年だ。

そんな中、個人的には資本主義2.0への期待が大きい。いや、そうならないと、現代社会が崩壊してしまう、そんな危機感すら抱く昨今である。

ただ、岸田政権が新しい資本主義を唱え、斎藤幸平氏の「人新世の資本論」が売り上げを伸ばし、中国の伸長やロシアの増長?で、世界的にも資本主義陣営の旗色が悪い中、皆、資本主義の現状に警鐘は鳴らしつつも、一体、どういう方向性・価値を追えば良いのかについては、必ずしも判然としない。(注:朝比奈の解釈では、斎藤氏は、バルセロナの例などを用いて地域コミュニティに活路を見出してはいる。)

ここでは、経済学の父とも言うべきアダム・スミスに立ち返って、今更ながら、「資本主義」の原点を探りつつ、今必要とされる「古くて、しかし、新しい(かもしれない?)資本主義」について考えてみたい。

「レッセ・フェール」(“神の見えざる手”による市場メカニズム調整)という言葉が一人歩きして極めて有名になったアダム・スミスの主著『国富論』ではあるが、その論旨の本質は、市場メカニズムの称揚よりも、むしろその裏側にあるのではないかと思う。つまり、貨幣を過度に重視して、時に不当な介入も行い主に貿易差額による王室経済の繁栄を図る「重商主義的あり方」への批判こそが、彼が最も言いたかったことではないか。

そんなこともあって『国富論』(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)は、日本語で『諸国民の富』と訳されることも多いわけだが、王室独占から国民(市場)に主役を移すべきと考えていた彼の結論、彼の批判から導き出される裏側としての結論は何であろうか。もっと言えば、国民経済としての市場メカニズムが重視し、大切にすべき価値とは何であろうか。

私の理解では、後年の労働価値説の萌芽とも言うべき内容がその本質である。すなわち、貨幣そのものより、貨幣によって交換されるべき労働にこそ本源的な価値があるわけで、そこにもっと目を向けるべきだと。

ここで唐突だが、例えば、ある二つの家族(仮に、山田家と佐藤家としておこう)が、一緒にホームパーティを開くことを想像してほしい。山田家も佐藤家も田舎暮らしで、畑を所有し、様々な野菜を作っていて、おまけに鶏などの家畜も飼っているとする。パーティで使う食材は、ほとんどが互いの家で作っているものであり、互いにそれらを供出し、交換し合いながら、一緒に調理をしてパーティを楽しんだ場合、残念ながら「経済学」的には、ほとんど価値を生んでいないことになる。市場を介した金銭のやり取りがあまり生じていないからだ。

仮に山田家と佐藤家が、都会のマンションに住む隣家同士の場合を考えてみよう。食材は全てスーパーや専門サイトなどで調達することになるし、もしかすると、調理も、出張シェフにお願いすることにして、食事が出来るまでの間、両家は他愛もない会話に興じることになるかもしれない。この場合、食材の購入やシェフへのフィーの支払いなどの金銭のやり取りが生じるため、経済学的には、財やサービスによる付加価値を生み出したことになる。

分かりやすく言えば、前者のケースは、いわば物々交換的世界で成り立っているので、両家の各種労働はその多くがGDPなどに換算されることがないが、一方、後者では市場を介したやり取りが多々あるため、各種労働がGDPに換算される。

私の理解では、アダム・スミスは、神の見えざる手による市場メカニズムを持ち上げて、後者を手放しで礼賛したわけではない。本質的には、彼は、労働(貨幣によって費消されるべき対象)に価値を置いていたわけで、前者のパターンの山田家と佐藤家の「労働」も、市場こそ介さないが、アダム・スミス的にも、すばらしい労働価値を生み出しているとみるべきである。

つまり、現在の危機的状況から脱する新しい資本主義とは、古くて新しい資本主義、つまりアダム・スミスも注目した本質的価値である「労働」にもっと着目すべきなのだ。たとえ現代的にはGDP換算されないとしても。