こんにちは。
アメリカ東海岸時間で1月28日(金曜)の早朝、日本時間では同日深夜、ピッツバーグで全長136メートルという大きな橋が崩落しました。
ほんとうに不幸中の幸いと言うべきことですが、2両連結のバスと自動車数台が滑り落ち、負傷者は10名、うち4名が病院に搬送されて手当を受けただけで済みました。
アメリカの中でも、とくに重厚長大製造業の衰退とともに地価も下がり、人心もやや荒廃ぎみのかつての工業都市で都心部の再開発が進んでいます。
アメリカの都市再開発は大衆の生活を置き去りにした虚飾の塊
アメリカの場合、1946年にロビイング規制法の名のもとに贈収賄合法化法が成立してからというもの、上は大統領府から下は市町村の役所にいたるまで、あらゆる開発事業が利権集団によってカネ儲けのタネにされているのです。
それでいて、都心の一等地をほとんど何ひとつ実用性はないモニュメントや公園にして、一見いかにも環境への配慮を優先しているかのような開発事業をやっているのです。
いきなり大げさな決めつけと思われる方も多いでしょう。ですが、まず金曜日に崩落した橋梁の現場写真を2枚つづけてご覧ください。

このファーン・ホロー橋は、台地と台地のあいだの窪地を通る川を中心に両側に公園が広がっている場所で、自動車での急なアップダウンを避けるために公園ごと窪地をまたいで築かれた道路橋です。
ばらばらになった床板の一片が2両を蛇腹で連結したバスに乗り上げるようにそそり立っています。まだ朝の7時前ということもあって乗務員もふくめて5~6人しか乗っていなかったそうです。それでも、乗り上げた床板が落ちてきたら惨事は免れなかったでしょう。
それにしても、あと30分ほど遅れてラッシュアワーになってから崩落していたらと思うとぞっとします。
後ろから走ってくるクルマにせき立てられて、次々と崩れ落ちていく床板に激突したり、30~40メートル下の窪地や川に転落して何十人という犠牲者が出ていたかもしれません。
もう少し遠景から見ると、この橋の大きさがわかります。

たぶん橋桁と橋桁のあいだの弱い接合部ごとに断裂してしまった床板の様子を見ると、いったいどれぐらい古い橋なのかと思ってしまいます。ところが、この橋は1973年に竣工してからまだ供用50周年も迎えないうちに、これだけぼろぼろになって崩れ落ちてしまったのです。
ところが、この橋は1973年に竣工してからまだ供用50周年も迎えないうちに、これだけぼろぼろになって崩れ落ちてしまったのです。
ちなみに、ほぼ同じ場所にこの橋よりやや短めに建てられていた旧ファーン・ホロー橋は、1901年の竣工で、新ファーン・ホロー橋に役目を引き継いで無事引退したので72年保ったことになります。
もちろん、クルマ社会化が進んでからは冬に積雪や結氷の多い地域では氷結防止のために塩を撒くので、塩害によって鋼鉄の橋桁の劣化が早まるのは事実です。
それにしても、こんなに早く、こんなに悲惨な状態になってしまったについては、管理責任のある自治体当局がかなり維持補修に手を抜き、点検作業などもいい加減にしていたのではないかという疑惑が高まります。
実際に、この橋は去年9月に点検を受けていて、そのときの総合評価は「劣悪」でしたが、主な問題点は床板や舗装面といった上部構造にあり、基礎や橋桁は「健全」とされていたのです。
この「劣悪(原文ではpoor)」というのは、直ちに通行止めにするほどの大きな欠陥が生じているわけではないが、できるだけ早く補強や改修をすべきだという評価のようです。
なお、2020年4月時点の集計で、ピッツバーグが属するペンシルベニア州に存在する劣悪な橋の総数は3501基で、これはアイオワ州の4575基に次ぐ全米で2位の数字でした。
安全性を優先すべき公共事業が、短期間に「成果」を示す競争に堕した
前回の投稿でご紹介したセントルイスもミシシッピ川の舟運を基盤に発展した町でしたが、ピッツバーグもまた、川船による旅客・貨物の輸送で栄えた町でした。
ただ、セントルイスが比較的川筋の単純なミシシッピ川1本に依存した町だったのに対して、ピッツバーグはアレゲニー川とモノンガヘラ川というふたつのかなり大きな川が合流してオハイオ川というもっと大きな川となる場所にできた町という差があります。
しかも、次の水系図でおわかりいただけるように合流する前の2本の川も合流してからのオハイオ川も、あちこちに蛇行しながら何本もの支流からの水を集めて流れていきます。

当然のことながら、この合流点に位置するピッツバーグは、昔からひんぱんに洪水に悩まされてきました。

上が1964年の洪水、下がつい最近2020年の洪水です。まったく同じ場所をほんの少し角度を変えて撮しているのですが、幹線道路が完全に水に浸かり、近隣の交通はほぼ途絶状態となっています。
町の両側に非常に水量の大きな大河が流れているのですから、なんとか排水法を工夫すればこれほどの浸水被害が出ないで済む方法はありそうなものです。
ところが、1990年代末から2010年代初めにかけて推進され、アメリカ全土でリバーフロント再開発のお手本と言われているピッツバーグ都心部再開発は、そうした地味な生活基盤の改善とはまったく無縁な、美辞麗句をかき集めたしろものでした。
のちに、自分たちもリバーフロント再開発をしようとピッツバーグの事例を研究したシカゴの再開発準備会がまとめた資料では、ピッツバーグ再開発成功のカギを次のように要約しています。
- リバーフロントへの投資を組織化する。
- 場所の持つ力を強化する。
- 川岸体験を膨らませる。
- 川との接触を増やす。
- 止水シートを活用する。
- 橋の都市を祝福する。
- 地域の連携を強める。
- 輸送機関を統合する。
- 都市エコロジーと持続可能性の価値を取りこむ。
5番目の「止水シートを活用する」だけが場違いなほど実用的な以外は、まったく内容のない美辞麗句の羅列です。
実際のピッツバーグ市当局と再開発事業体がやったことも、カネをかけずに手軽のできること、カネをかければ元を取れそうなことばかりで、地味な生活インフラの整備はまったく手つかずに近い状態でした。
たとえば、昔から三姉妹橋として市民に親しまれてきたやや黄色みの強い黄土色に塗られた3本の橋をそれぞれ6丁目橋、7丁目橋、9丁目橋という位置のわかりやすい名前から、次の地図のように改称したことです。

1998年の6丁目橋からクレメンテ橋への改称は、長年にわたってピッツバーグ・パイレーツの名右翼手として活躍したロベルト・クレメンテを記念したものでしたから、まあ多くの市民が共感したでしょう。
でも、ピッツバーグ出身の著名人だというだけで、7丁目橋をアンディ・ウォーホルにあやかった名前に変えたのは、どうでしょう。
ニューヨークに出て行って、キャンベルスープの缶詰を画面いっぱいに描いた絵や、マリリン・モンローのモンタージュを物好きな金持ちに高く売りつけて成り上がった人間として、かなり反感を持っていた市民も多かったのではないでしょうか。
最後の2021年になってから9丁目橋を『沈黙の春』という世界的ベストセラーを書いて環境保護運動の先駆けとなったレイチェル・カーソンに因んだカーソン橋と改称したのにいたっては、どうにも時流におもねったという印象が鼻につきます。
比較的最近撮影された、この三姉妹橋の写真をご覧いただ来ましょう。

すでに撮影時点で改修を終えているウォーホル橋だけはペンキの色がやや鮮やかになっていますが、きちんと上部構造・下部構造を点検し、補強すべきところは補強しているかとなると、かなり疑問です。