ダメ社員の仕事が「逆転ホームラン」になったワケ
金融、物流、マーケティング、さらには教育と、まったく異なる分野でキャリアを重ね、グロービス経営大学院客員教授として教壇にも立つ伊藤羊一氏。著書『1分で話せ』は35万部のベストセラーになった。そんな伊藤氏だが、新人のときに「不合格」の烙印を押されたという過去を持つという。
※本稿は、伊藤羊一著『やりたいことなんて、なくていい。』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
徹底的に適応できていなかった新人時代
「仕事が嫌だ」「今の仕事にやりがいを感じられない」。
そんな不満を抱えている若手のビジネスパーソンは多いと思います。
しかし、大学を出て就職したばかりの私は、それどころではありません。もっとひどい状態でした。
「なんでこんな仕事をしているんだ」と思える人は、まだいい。
私の場合は、そもそも「仕事とはどうやったらいいのか」がわからなかったのです。
先輩とどう接したらいいのかわからない。
同期の飲み会も、なじめない雰囲気を勝手に感じて、参加したくない。
「なんでみんなは、同期であんなに盛り上がれるんだろう?」と思っていました。
斜に構えているし、コミュニケーションも苦手なので、人と話すのが嫌なのです。
だから、会社に行くのも嫌。そんなに仕事が嫌だったら辞めればいい、と思われるかもしれませんが、「なんで俺、背広着てこんなところにいるんだっけ?」という状態なので、転職する、という選択肢さえ考えられません。
要するに、職場に適応できていなかった、それも徹底的に適応できていなかった、ということです。
もちろん、仕事も全然できません。
新人研修が始まって1ヶ月くらい経った頃、遅刻をして怒られました。「新人は早く来いよ」「わかりました、すみませんでした」と謝った翌日、また遅刻して研修リーダーに激怒されるような社員でした。
新人歓迎会を開いてもらったときには、その日ちょうど観たいテレビがあったので、途中で「すいません、先に帰ります」と言って帰ってしまい、その翌日、盛大に叱られました。でも、「なんで怒られるんだ?」と、意図を汲み取ることもできません。
他にも毎日のように失敗をして、半年間の研修を終えた頃には研修で「不合格」をつけられた4人の中に入ってしまいました。
要するにこの頃は、社会人として、それ以前に人間として当然持っているべき常識がなかったのです。自分にばかり意識が向かってしまって、それをやったら相手がどう感じるか、という程度のこともわかっていなかったのです。
こうして「不合格」の新人としてスタートし、それからしばらくは、相変わらず失敗ばかりしながら、どうしたらいいのかわからない日々が続きました。
でも、そんな毎日を過ごしながら、心のどこかで「俺はまだ本気を出していないだけ」と思ってもいました。
バブルの残り香がある頃ですから、同期はみんな楽しく合コンをしたりしていました。
仕事でも結果を出して、先輩とも仲良くやって、生き生きと日々を過ごしている。
それを横目に見ながら、私は相変わらず斜に構えて、とにかく居心地の悪い日々を過ごしていました。それどころか、居心地の悪さは、どんどん強くなっていきました。
ある朝、突然、玄関から出られなくなった
そんな毎日を送っていた結果、26歳にして私は爆発します。
取引先を訪問しているとき、謎の吐き気に襲われ、そのまま2時間ほどトイレに立て籠もってしまったのです。
うつ症状が表面化したのです。
それから数週間は、会社に行くことができませんでした。
朝起きて、背広を着て、玄関を出ようとすると吐き気がこみ上げてくる。出社するどころではありません。
結局、数週間、会社を休むことになりました。
今だったら、診断書をとって休職することになるレベルかもしれません。
しかし、当時はまだメンタルヘルスに対する理解が進んでいなかった、いえ、メンタルヘルスなんていう言葉自体がなかった時代です。休んでいる自分自身でさえ、これは単なる「イヤイヤ病」とか、ズル休みだと思っていました。
数週間が過ぎて、「さすがにこれはヤバい」と思った私は仕方なく出社しました。そこからは、吐きながら仕事をする毎日です。
今にして思えば、これは「仕事恐怖症」「人間恐怖症」だったのかな、と思います。
仕事の意味がわからなくて、職場での人間関係も怖くて仕方がない。それに耐えて無理に会社に行っているうちに、会社に行けなくなったのです。
そんな私がどうやってそこから「仕事恐怖症」を克服することができたのか。
私が、うつ症状から抜け出すきっかけとなったのは、仕事でした。
私は仕事に救われたのです。
誤解のないように言っておきますが、「うつは会社に行けば治る」などという暴論を吐くつもりはありません。メンタルの不調を抱えている人は、しっかり休んでください。
ですが、私は間違いなく、仕事がきっかけとなって、復活を遂げることができました。
その話をこれからしようと思います。
その仕事というのは、担当していたあるマンション会社、A社の融資案件です。
当時の私は、まだ若かったせいもあって、とにかく「かっこいい会社」を担当したいと思っていました。すると、どうしても目立つ会社に目が行きます。
A社は、私の担当している25社の中で、唯一テレビコマーシャルをやっていました。F1の番組のスポンサーをしているのを知っていたので、「おお、テレビコマーシャルをしているあの会社か」となんだか嬉しかったのを覚えています(我ながら安直ですが)。
そんなわけで、この会社の皆さんとは仲良くさせてもらっていました。
特に、経理部長には毎晩のように電話をいただきました。そして、「うちの会社がいかにちゃんとしているか」ということを、あれやこれやの視点で説明してくれました。
私も関係を深めていけるのが嬉しかったので、毎晩、しっかりと話を聞きました。
すると、聞いているうちに、
「私たちはまだ、仕入れが復活できる状況じゃない」
「既存の塩漬け物件を処理するので今はいっぱいいっぱいだ」
「けれど、復活したあかつきには融資をお願いしたい。そのときには、あなたが頼りだ」
なんていうディープな話も出てきます(当時はバブル崩壊後で、マンション業界がとても厳しい時期でした)。
この頃は、私がなんとか職場復帰して、どうにかこうにか仕事をしていたちょうどその時期。そしていよいよこの会社は、銀行から借り入れをして新しいマンション案件に着手することになりました。
このとき、「あなたしかいないんだ」と私を頼ってくれたのが、この経理部長でした。
そう言われると、意気に感じないわけがありません。
とはいえ、私はバリバリ仕事ができる状態ではなく、毎日吐きそうになりながらどうにかこうにか仕事をしている毎日。そして仕事のスキルもまったくついていません。
「大丈夫かな?」というのが正直なところでした。
「やるしかない」一心で上司と社内中を駆けずり回る
どうしようかと思った私は、当時の上司に相談しました。
返ってきた答えは今でもよく覚えています。「自分を納得させてくれたら、社内中駆けずり回ってお前の案件を成立させてやる」と言うのです。
さらに、周りの先輩たちが寄ってたかって助けてくれたのです。「これを調べろ」「あの人に聞いてみろ」「こうやって考えるんだ」と。
こうした助けがあって、私はなんとか仕事を進めていくことができました。
考えてみると、「あなたしかいないんだ」と言ってくれた取引先の経理部長といい、背中を押してくれた上司といい、助けてくれた先輩たちといい、私はメンターのような存在になってくれる人に恵まれていました。
こうなるともう、やるしかない。
私は狂ったようにマンション業界について勉強をし、情報を集めていきました。
融資案件を成立させるためには、これからA社がつくろうとしているマンションが、「間違いなく売れる物件」であることを証明しなければいけません。
まずやったことは、ある先輩のアドバイスに従ってアパート・マンション情報誌を買ってくること。インターネットもまだ普及していない時代ですから、情報集めもアナログです。そして、1冊分の新築マンションのデータをすべて見て、まずは手元で整理しました。
データを見ていくと、どうやら都心から最寄駅までの電車の時間と、最寄駅から(徒歩やバスで)かかる時間が、マンションの平米あたりの単価に大きな影響を与えていそうだ、と気づきました。さらにデータを集めて集計していくと、「都心からの距離」「最寄駅からの距離」「平米あたりの価格」の計算式みたいなものを自分なりに導くことができたのです。
言ってみれば、フレームワークを自分でつくってしまったようなものです。
まあ、既存の知識を勉強するのが苦手だった、ということもあるのですが……。
ともかく、この数式によると、今回の物件は、「誰が見てもべらぼうに割安だ」という結論が得られました。考えてみると、これは当然の話。当時、新築で発売されていた他の物件は、すべてバブルの最後のほうに仕入れている物件なので、コストがやたらに高く、当然、販売価格も跳ね上がっています。
一方、バブル崩壊後の仕入れとなる今回の物件は、その分割安になるわけです。しかし、リスクを恐れてどこも手を出していなかったのです。
正直、「これはいける」と思いました。
今回の物件は、割安であるために必ず売れる。しかも、A社は歴史が新しいだけに財務体質も傷んでいない。そんなことを根拠にして、私は懸命に上司に説明しました。
時期が時期だけに、銀行の本部はリスクをとることに消極的です。けれども、上司も約束通り、ほうぼうを駆けずり回って説得にあたってくれました。
おかげで、この案件は見事に成立することになりました。
「仕事って怖くない」と心から思えた瞬間
幸運なことに、結果的にこれは、バブル崩壊後のマンション新規融資物件としては、先がけの案件となりました。銀行のマンション業者に対する新規貸出自体、これがバブル崩壊以降では最速レベルだった、とも聞きました。
さらに、発売してみると、予想通り売れ行きは好調。行列ができるくらいの好評ぶりです。A社の社長が後に語っていた言葉を借りれば、結果的にこの案件が、「第6次マンションブームのきっかけの1つになった」とまで評価していただきました。
もちろん、やっている最中は、バブル崩壊後のこの状況下で、「新たなマンションブームを起こそう」なんて考えもしません。相変わらず吐き気に襲われながら、必死で駆けずり回っていたというのが正直なところです。
ともかく、私が必死でやり抜いた仕事は、予想以上の成果をあげて終わることができたのです。
忘れられないのは、無事に案件が成立してA社の社長と飲みに行ったときのこと。
2人で泣きながら抱き合って「よかった、よかった」と喜び合ったのです。
このとき、生まれてはじめて私は、「仕事って悪いものじゃないな」「仕事って怖いものじゃないんだな」と思えたのです。
就職して、職場にも仕事にもなじめず、ついにメンタル不調になってしまった私は、仕事自体が怖かった。会議室に入って、人と顔を合わせて、商売のやり取りをする。それ自体がもう、怖くて怖くて仕方がなかった。
「取って食われるんじゃなかろうか」というような心持ちで仕事をしていました。
けれども、実際の仕事はそうではなかった。
仕事をする相手は、みんな普通の人間です。一生懸命にやれば相手も応えてくれるし、助けてくれる。だから仕事は怖くない。心からそう思えたのです。
別に、この案件を通じて、急に仕事ができるようになったわけではありません。
しかし、必要以上に怖がっていた仕事が怖くなくなりました。
「自分も仕事をしていていいんだ」と思えるようになったのです。
さらに言えば、「仕事を通じて、自分と社会はつながっているんだ」と実感できました。
その意味で、私にとってターニングポイントとなる出来事でしたし、文字通り私は仕事に助けられたのだと思います。
伊藤羊一(いとう・よういち)
ヤフー〔株〕 コーポレートエバンジェリストYahoo! アカデミア学長
〔株〕ウェイウェイ代表取締役。東京大学経済学部卒。グロービス・オリジナル・MBA プログラム(GDBA)修了。1990年に〔株〕日本興業銀行入行、2003年プラス〔株〕に転じ、201年より執行役員マーケティング本部長、2012年より同ヴァイスプレジデントとして事業全般を統括。かつてソフトバンクアカデミア(孫正義氏の後継者を見出し、育てる学校)に所属。孫正義氏へプレゼンし続け、国内CEO コースで年間1位の成績を修めた経験を持つ。2015年4月にヤフー〔株〕に転じ、次世代リーダー育成を行う。グロービス経営大学院客員教授としてリーダーシップ科目の教壇に立つほか、多くの大手企業やスタートアップ育成プログラムでメンター、アドバイザーを務める。著書に、『1分で話せ』『0秒で動け』(ともにSB クリエイティブ)がある。(『THE21オンライン』2019年12月11日 公開)
文・THE21オンライン/提供元・THE21オンライン
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