中国の長江中流域、湖北省の巨大都市・武漢(ぶかん/ウーハン)。2020年初頭、新型コロナウイルス感染症の発生から、別の意味で注目されてしまった街である。いったい、どんな街なのか。
呉の皇帝・孫権が命名した旧来の都市「武昌」
武漢は北京や上海に比べ、知名度がさほど高くないこともあって、その場所や地域性を知っている人は、日本では少数派かもしれない。
そもそも、「武漢」という地名は、比較的新しくできたものだ。1926年に武昌(ぶしょう/ウーチャン)、漢口(ハンカオ)、漢陽(ハンヤン)の3都市の頭文字を併せて生まれたものだ。中国史に馴染んだ方なら「武昌」あるいは漢口などの地名のほうに親しみを覚えるかもしれない。
現在、日中間においては入国制限により、観光やビジネスでの渡航が事実上できなくなっている。そんな時だからこそ、武漢という地がどんな場所なのかを知ってもらう意味も含め、その代表的な名所を紹介したい。
旧来の武昌という都市は、三国時代(220~280年)の呉の皇帝・孫権が命名したもので、非常に長い歴史を持つ。この地は当時、魏・呉・蜀の各勢力による激しい係争地でもあった。1911年には、辛亥革命の口火を切った「武昌蜂起」の現場となった場所でもある。(写真は武昌区にある鉄道駅)
武漢市のなかに「武昌区」という地名は今もあって、その真ん中にそびえるのが、ご当地シンボル「黄鶴楼」(こうかくろう)だ。高さ51・4メートル、5階建ての楼閣。223年、孫権(そんけん)が建業(現在の南京)から武昌へ、一時的に遷都したときに物見櫓を築いたのが、その前身と伝わっている。
今は立派な塔の姿だが「黄鶴楼」という名前の通り、唐の時代までは2階建ての楼閣であった。その後、何度も焼失、倒壊している。修復や改修が重ねられ、今では当初の位置から場所も少し南のほうへ移されてしまった。
楼上からの景色を楽しむには、最上階5階まで、地上50mを階段で上がらなくてはならない。さすがに息も切れ切れになるが、そこからの眺望はまさに絶景。武漢の街が一望でき、長江にかかる全長1670mの長江大橋も見える。
楼内には多くの壁画が飾られているが、中には三国志にちなんだものもある。劉備(りゅうび)と周瑜(しゅうゆ)、その会見の様子だ。
黄鶴楼に伝わる三国志の民間エピソード
西暦208年、「赤壁の戦い」に勝利した周瑜は、この黄鶴楼に劉備を招待して盛大な祝宴を張った。劉備は感謝し、周瑜のために歌を詠んだという。
「天下大いに乱れ 劉氏将に亡びんとす 英雄世に出て 四方を掃滅す 烏林で一たび 権剛を挫滅す 漢室興り 賢に与し 良賢なるかな仁徳 美なるかな周郎」
周瑜は、これを喜んで聞いたであろう。しかし、彼は劉備の才能を警戒し、祝宴に乗じて捕らえようと企んでいた。劉備は諸葛亮の助言でそれに気付いて、逆に周瑜をおだてて酔いつぶす。周瑜は琴を弾きながら寝てしまい、劉備はその間に逃げ延びたという。
この話は小説(三国志演義)よりも前に書かれた宋~元代の説話集『三国志平話』にあるもので、架空のエピソードだ。民間伝承から派生し、中国では昔から雑劇の演目にもなっているそうだ。
黄鶴楼の下の広場に、岳飛(がくひ=1103~1142年)の大きな像が建っている。岳飛は南宋時代の将軍である。彼が生きた時代、南宋は北方の強国・金に国土の半分を奪われ、滅亡の危機にあった。岳飛は南宋の軍勢を率い、金軍と何度もぶつかって勝利を挙げ続けた。
そうした活躍から、岳飛は中国で最も人気がある国民的英雄として尊敬されている。「救国の英雄」とも呼ばれ、三国志の関羽と並んで、あちこちに廟が建ち、祀られてもいる。この武漢の地は、彼が8年間にわたって滞在したゆかりの地でもあったため、大きな像があるのだろう。やはり岳飛は人気で、たくさんの人が像の下で記念写真を撮っていた。
武漢名物の「飯」「麺」グルメを満喫
さて、次の目的地へ行く前に腹ごしらえ。おじさんが大鍋で調理しているのは、地元の名物グルメ。まず、もち米を敷き詰め、そのうえに細かく刻んだザーサイやキノコ、豚肉などの具材をまぶす。
それをクレープ状に薄く伸ばした玉子と小麦粉の衣で包んで揚げ、食べやすいサイズにカットする。このあたりの屋台では定番の「三鮮豆皮」(サンシェントゥピー)という料理で、言ってみれば湖北省のオムライスのようなものか。少し脂っこい感じもするが、美味しい。地元民は、とくに朝食として食べることが多いらしい。中国の料理と言えば、北では小麦粉主体で餃子や饅頭系の料理が多いが、南では、やはりこのような米飯を使った料理も多く見られる。
だが、しっかりと麺料理もある。とくに有名なのが熱乾麺(ルーガンミェン)だ。汁無しの温かい麺で、芝麻醤(チーマージャン)というゴマ風味のタレ、ザーサイ、ネギなどを混ぜ合わせて食べる。これが実に美味しい。
それとは別に、とあるお店で「辛くないもの」をリクエストしたら……なんと冷やしトマトに「砂糖」をまぶしたものが出てきた。塩ならまだしも、これは食べることができず、申し訳なくもほとんど残してしまった。
古戦場にて、赤壁の戦いの跡を偲ぶ
さて、武漢を後にして、次の目的地・赤壁(せきへき)へ向かう。武漢から大体100kmほど、長江をさかのぼったところに赤壁市がある。市内に広がる長江の南岸は、西暦208年に行なわれた「赤壁の戦い」で孫権陣営が布陣した古戦場。現在、そこが「三国赤壁古戦場」としてテーマパーク化されているのだ。
その奥にある長江沿いの崖が「赤壁摩崖」と呼ばれる有名な撮影スポット。テレビなどでもよく紹介されるので、見覚えのある方も多いだろう。崖には赤く「赤壁」の二文字があり、伝承では周瑜が戦勝を祝って刻みつけたといわれるが、実際は唐の時代に彫刻されたものという。
赤壁テーマパークは、大規模に観光地化されており、このようなロボット関羽とか、どうでもいい展示物もたくさん置いてある。どうも、赤壁の戦いをテーマにした映画「レッドクリフ」(2008年)の公開前後から、あまり芳しくない形で観光地化されているようだ。ただ先の「赤壁摩崖」だけは定番というべきか、三国志ファンであれば、訪ねておきたいところではある。
もうひとつ、赤壁を訪れるなら勧めておきたいのが、対岸の烏林(うりん)だ。烏林は、曹操軍が布陣した場所だから、とくに曹操や魏が好きな人は訪れなくてはなるまい。
赤壁古戦場の近くに渡し場があり、大体1時間おきにカー・フェリーが往来している。人はもちろん、車ごと渡ることもできる。このあたりは橋が少ないため貴重な渡し場だ。片道10分ほどの短い船旅で、北岸の烏林に着く。当時の船とは全然違うものの、この場所で長江の風に吹かれる体験は格別の感がある。実際の戦場は赤壁ではなく、長江の水面上だったわけだから。
後世、南岸の「赤壁」の名ばかりが轟いているが、実際は北岸の「烏林」こそが決着の地だ。黄蓋(こうがい)が、火の付いた船団を突っ込ませたのは烏林にあった曹操陣営であった。烏林には「曹操湾」などの地名も残っている。写真の「万人抗」は、火攻めにあって敗北した曹操軍の多くの戦死者が埋められた場所といわれている。いまや当時を思わせるものは何もないが、両軍激闘を物語るその旧跡に立つと、しみじみとした気持ちになれる。
黄鶴楼がある武漢、古戦場・赤壁のほかにも、湖北省には魅力的な観光地も多い。北に行けば劉備や諸葛亮が出会った「三顧の礼」の舞台である襄陽(じょうよう)、太極拳の発祥地として名高い武当山。そして、白帝城や宜昌といった名所を眺めての「三峡下り」で知られる三峡ダムなど……。中国史に親しんだ方にとっては垂涎の名所ばかりだ。また機会があれば、それらの史跡も紹介したい。かの地を再び笑顔で旅できることを願い、今回は筆を置こうと思う。
【文・写真/上永哲矢】
歴史著述家・紀行作家/温泉随筆家。神奈川県出身。日本全国および中国や台湾各地の史跡取材を精力的に行ない、各種雑誌・ウェブに連載を持つ。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)など。
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