不安は匂いで伝染するようです。
ドイツのハインリッヒハイネ大学(HHU)の研究者たちにより『Biological Psychology』のVol.162に掲載された論文によれば、不安を感じた人間の汗には、他人に不安を伝染する化学物質が含まれているとのこと。
また不安感情を伝染された個人は、他人に対する信頼感が減少し、リスクに対しても後ろ向きになったことが確認されました。
さらに興味深いのは、このような不安の空気伝染がみられたのは女性のみであり、男性への影響は確認されなかった点にあります。
感情・化学物質・心理の最前線では、いったいどんな研究が行われているのでしょうか?
匂いは感情を運ぶ
近年の生物心理学の進歩により、ヒトの体から発せられる匂い(化学的な信号)が他者の心理に大きな影響を与えることが次々に明らかになってきました。
例えば、腐敗した死体から発せられる化学物質「プトレシン」の匂いが、ヒトに突然の恐怖を感じさせることがわかっています。
また別の研究では、ストレスを感じた人間から発せられる化学物質が、感情を処理する脳領域を活性化させていることも示されています。
しかし恐怖や感情処理は、あくまで精神的な変化であり、実際の社会的行動でどのような変化を起こすかは不明でした。
そこで今回、研究者たちは嗅覚が社会的行動に与える影響を調べるため「不安の匂い」を利用することにしました。
実験の第1段階は不安を空気伝染させるために必要な、化学物質の採取です。
といっても方法は非常に原始的でした。
22人の男性に対して不安をあおる「面接」などの場面を経験してもらい、たっぷりワキアセをかいてもらうというものです。
その間、別の214人の被験者(男女含む)に対して2つのゲームを行ってもらいました。
1つ目は人間のプレーヤーが対象であると告げられた投資ゲームです。
ゲームは非常にシンプル。
被験者は投資家として相手にお金をわたすと3倍になるというものです。
ただ3倍になったお金を、相手の人間が自分にどれだけ払ってくれるかは「お互いの信頼関係」にかかっていました。
最悪の場合、投資金ごと全て持ち逃げされる可能性がありますが、ゲームを続ける限り、被験者も相手の人間も継続的に利益を得られる「Win-Win」な関係にあるため、あえて持ち逃げする意義はありません。
このゲームでは、相手をいかに信頼し大きな投資を行うかが、最大の利益を得る鍵になります。
もう1つのゲームは、内容はほとんど同じながらも、相手はコンピューターだと告げられます。
そして3倍になったお金をどれだけ自分に渡してくれるかはランダム(0倍から3倍)でギャンブル要素(リスク)があるゲームでした。
しかし、こちらも続けるうま味はあります。結果が本当にランダムならば期待値は1.5倍。
理論上、続ければ続けるほど被験者(投資家)は儲かります。
こちらのゲームでは、多少の損失を覚悟しても、お金を張り続けて「リスクをとる覚悟」が最大利益の鍵になります。
研究者たちはこの2つのゲームをそれぞれ「信頼ゲーム」「リスクゲーム」と名付けました。
そして被験者たちがゲームに慣れたことを確認すると、研究者たちは次の実験段階に移行します。
同じゲームを、ワキアセの匂いを含む、さまざまな匂いをかいでもらいつつやってもらうのです。
なお、当然ながら、被験者たちに嗅がされる匂いの正体は(ワキアセを含めて)全て伏せられています。
しかし結果は非常に興味深いものになりました。
不安な男性から採取されたワキアセには、ヒトの社会的行動を変化させる力があったのです。
不安な男性のワキアセは女性被験者の経済活動に変化を起こした
不安な状態に置かれた男性のワキアセは、被験者たちにどのような変化を起こすのか?
研究者たちはワキアセを含むさまざまな香りを214人の被験者に嗅がせながら「信頼ゲーム」と「リスクゲーム」を続けてもらいました。
すると、主に女性の被験者(投資家)において顕著な変化がみられました。
不安な男性から採取されたワキアセの匂いを嗅いだ女性の被験者(投資家)たちは、どちらのゲームでも、1回の投資額を有意に減らしはじめたのです。
信頼ゲームにおける投資額の減少は、他人に対する信頼度が揺らいでいることを示し、リスクゲームにおける掛け金の減少は、リスクに対する積極性が減少したことを示します。
これらの変化は、不安に陥った人間にみられる一般的な反応と一致します。
また興味深いことに、ワキアセの濃度を薄めて、人間には知覚できないレベル(無臭)にした場合でも、女性被験者の投資額を減少させる効果は維持されました。
この結果は、汗に含まれる何らかの化学物質(揮発性で無臭)が、ヒトからヒトへ不安を伝染させ、本人が気付かない無意識のうちに社会的行動を変化させていたことを示します。
一方で、男性の被験者の場合、ワキアセの匂いは特に変化を与えませんでした。
そのため研究者たちは、化学物質による不安の伝染は、女性に優先的(限定的)な反応であると結論しました。
集団の感情を操作する化学物質は作成可能か?
今回の研究により、不安な感情は化学物質により、他人に伝染することが示されました。
また、この化学物質は主に女性において、他人に対する信頼度とリスクに対する積極性を、無意識のうちに、減少させる効果がありました。
腐敗した遺体から発せられるプトレシンの匂いが男女の両方に対して恐怖感情を引き起こし、ストレスを抱えた個人から発せられる匂いが性別に関係なく脳の感情処理回路を活性化させることから、男性にも嗅覚による感情の伝染を起こす能力があるのは確かです。
しかし、不安の伝染にかかわる化学物質の場合は、性差がありました。
このような性差はおそらく、進化の過程で獲得されたと考えられます。
他人の不安に対して、男性は鈍感であり、女性は敏感であることが、生存と生殖において有利に働く場面があったのでしょう。
研究者たちは今後、不安を媒介する化学物質の特定を進めると共に、不安以外のさまざまな感情の伝染現象を調査していくとのこと。
もし化学物質が、人間の精神と行動に支配的な影響を与えるならば、特定の集団に対して望みの感情を与えるような散布薬が開発できるかもしれません。
参考文献
Smelling fear? Study provides evidence that chemosensory anxiety signals reduce trust and risk-taking in women
元論文
It’s trust or risk? Chemosensory anxiety signals affect bargaining in women
提供元・ナゾロジー
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