
1970年代後半、当時アルゼンチンの若き才能だったディエゴ・マラドーナ(故2020年)はすでに南米で大きな注目を集めていた。アルゼンチン1部のアルヘンティノス・ジュニアーズで次々とゴールを決め、南米大陸屈指の逸材と呼ばれる存在になっていた。
UKメディア『GiveMeSport』の報道によると、マラドーナは19歳のとき、プレミアリーグのアーセナルへの移籍に迫っていたようだ。1979年、当時アーセナルを率いていたテリー・ニール監督(故2022年)が同選手の獲得を試みたが実現には至らなかった。マラドーナ自身も2008年に「19歳のときに交渉があったが成立しなかった」と振り返っている。
その後もアーセナルの関心は続き、1982年に再び交渉が進んだ。マラドーナはすでに同1部のボカ・ジュニアーズに加入し、1981年にはアルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン優勝を経験していた。このときアーセナルは移籍金400万ポンド(約8億円)で同選手の獲得合意に至ったと報じられたが、ジュニアーズへの分割金100万ポンド(約2億円)が未払いであったため裁判所が売却を禁止。
さらにイングランド国内でも、労働党議員がスポーツ相に調査を求め、過剰な移籍金が問題視されたことで交渉は一層複雑化した。
アーセナルはスポンサー資金での支払いを計画したが、最終的にイングランドサッカー協会(FA)が介入し、欧州経済共同体圏外の選手に対して労働許可を認めない方針を確認。これにより交渉は完全に頓挫した。
同メディアによると、当時の報道では、マラドーナが「アーセナルでプレーしたい」と語ったこと、ボカ・ジュニアーズで週7500ポンド(約149万円)を得ていたこと等の事実も伝えている。
結局アーセナルは代替選手を獲得するにとどまり、マラドーナはその夏、500万ポンド(約10億円)という当時の史上最高額でラ・リーガのバルセロナへ移籍した。のちにナポリでセリエA初優勝へ導くなど、伝説的キャリアの始まりとなった。