「日本では、原子爆弾の投下によって引き起こされた精神的衝撃と、都市の壊滅的な破壊の中に、人々はいまだ苦しんでいた」。特設サイトは原爆による即死者数を広島で推定約6万6000人、長崎で約3万9000人としている。その後の数か月、さらには数年にわたり、放射線による被ばくの影響で、がんや白血病に苦しんだことも記されている。「火の玉のような爆風とハリケーン並みの強風によって市街地に火災旋風(ファイアストーム)が巻き起こり、多くの民間人が全身にひどい火傷を負った」。
1945年8月15日、昭和天皇が玉音放送を行う。「それまで天皇の声が一般国民に聞かれることはなく、天皇は『現人神(あらひとがみ)』として崇められていたため、これは衝撃的な出来事だった」。
広島で被爆し、重度の火傷を負ったナカモト・ミチコさんが終戦の知らせを聞いた時の心情が紹介されている。「戦争に負けたと思うと悔しくて仕方なかった。でも、もう空襲が来ない、地下防空壕に行かなくても夜眠れるんだ、と思うと、少しはホッとした。だから、複雑な気持ちだった」。
戦争末期、日本は深刻な食糧不足に悩まされた。
米海軍のシャーウッド・R・モーランは、友人への手紙の中でこう記している。「東京は私が初めて目にした戦争の犠牲地だ。破壊され、無残な惨状となっていた。だが、私の心を最も揺さぶったのは、あの静けさだった」。
ドイツは
敗戦国となったドイツ。
他のドイツの都市と同様、ベルリンも連合軍の空爆や市街戦によって壊滅的な被害を受け、国中に深い傷跡を残していたという。住宅の破壊によって、多くのドイツ市民が住む場所を失い、ホームレスとなった。英詩人スティーヴン・スペンダーは、ケルンの市民の様子をこう記した。「廃墟の中を掘り返して食べ物を探し、聖堂近くの闇市で取引をしていた」。
ドイツ全土には飢えが広がり、国民は働くことと引き換えに食糧配給券を受け取っていた。