ミッドウェー海戦
ミッドウェー海戦とは、1942年6月5日から6月7日にかけて中部太平洋ミッドウェー島周辺で行われた日本海軍と米海軍による海戦である。
この戦闘における敗北によって日本側は制空権と制海権を失い、以後戦争の主導権がアメリカ側に移った。太平洋戦争の重要な転換点となったのである。

炎上傾斜する三隈 Wikipediaより
作戦の立案
1942年4月、山本五十六長官率いる海軍連合艦隊が中心となり米海軍の基地となっていたハワイ諸島北西のミッドウェー島を攻略し、同時に空母を含む米艦隊の早期壊滅を目指す作戦が立案された。
この作戦には、当初、南方方面の作戦を優先する海軍軍令部は反対であったが、短期決戦を主張する山本長官の強い決意と、1942年4月のミッドウェー方面から飛来した米海軍空母2隻と爆撃機による東京・名古屋・大阪への空襲の衝撃によりミッドウェー作戦が確定したのである。
これに対して、日本側の暗号を解読して作戦を察知した米海軍はハワイから空母部隊を出撃させて迎撃した。
海戦の結果
航空兵力で100機以上劣勢の日本空母部隊は、索敵の不備と、戦闘機におけるミッドウェー島攻撃用の陸用爆弾から米空母攻撃用の魚雷への装備変更に時間を要した結果、攻撃準備中の日本空母に米海軍急降下爆撃機の急襲を受け、壊滅的な損害を被った。
日本側は、空母4隻と重巡洋艦1隻を失い、艦載機248機を喪失し、3000人を超える兵士が戦死した。米側は空母1隻と駆逐艦1隻撃沈、航空機約150機を失い、戦死者は307人だった。
敗北の原因と教訓
ミッドウェー島攻略と米空母部隊の壊滅を目指す作戦そのものは誤りとは言えないであろう。両面作戦は誤りとの説があるが、両面を想定し準備することが軍事上不合理とは言えまい。1941年12月のハワイ真珠湾攻撃では米空母を打ち漏らしている。米空母による東京空襲も無視できないのである。 山本長官の対米戦争短期決戦は、当時の日米の石油などの資源・生産力・軍事力すなわち国力の格差を考えればやむを得ない。なぜなら、長期持久戦は国力に劣る日本側にとっては「ジリ貧」に陥り不利だからである。 日本海軍は米空母部隊への索敵を含む偵察能力・情報収集能力・情報処理能力に不備弱点があった。そのため、米空母部隊の発見が遅れた。 ミッドウェー海戦の最大の敗因は、偵察機から米空母発見の報告を受けた南雲忠一司令官の誤った判断により、ミッドウェー島攻撃用の陸用爆弾から空母攻撃用の魚雷への装備替えに時間を浪費したため、米空母から飛来した米戦闘機による致命的な急降下爆撃を受けたことである。 この事態は一刻を争う時間との闘いであるから、多大の時間を要する魚雷への装備替えではなく、陸用爆弾装備のまま直ちに米空母部隊に向けて戦闘機及び護衛機を発進させるべきであった。 陸用爆弾は魚雷よりも命中率は劣るが、米空母甲板への陸用爆弾投下により、撃沈は無理としても航空機の発着を不可能にすれば、空母としての機能は喪失するのである。その証拠に、撃沈された日本の4隻の空母はいずれも米戦闘機による急降下爆弾攻撃を受け大火災を起こしたのである。 以上により、現在の日本国自衛隊においても、AIを最大限活用した宇宙空間を含む超高性能軍事偵察衛星や超高性能レーダー網をはじめとする大量の優れた情報収集偵察能力と情報処理能力の拡大強化、さらに、あらゆる事態や状況にも対応できる適正迅速な判断能力が求められよう。
これが「ミッドウェー海戦」敗北の重要な教訓である。判断を誤ると国が亡びるのである。