猫は昔から人間に飼われてきた。人は、鼠を捕まえる対価として、猫に餌を与えていたのである。これは、猫を人間社会の一員とみなした一種の契約関係である。猫は、契約の主旨に従って、鼠を捕るとき、褒められ、契約の主旨に反して、台所の魚を食べると、窃盗の罪を犯すことになる。

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さて、猫にとって、人間社会の一員に遇せられることは、幸せなのか。人間ならざる猫にとって、一方的に人間社会に組み込まれ、故に、いわれなき窃盗罪の嫌疑を受けることは、むしろ不幸なのではないか。鼠と魚、どちらを捕っても猫には同じことなのに、魚のときだけ犯罪になるのはなぜか。あの小さな頭で解くには、あまりにも高度な法哲学的難問だと思われる。

人間にとっても、この問題は本質的である。社会的動物としての人間は、自由に自律的に他の人間との間で契約に基づく関係を構築するが、同時に、その関係に拘束され、そこで規定された行動を期待され、強制されることになる。人間が生きることは、自由と束縛、この二面の矛盾的状況に生きることにほかならないのである。

猫における鼠と魚の関係は、人間社会における煙草と大麻の関係と同じである。社会規範のなかでは、煙草は許容されているが、大麻は犯罪化されている。犯罪は、社会が規定する一つの任意な取り決めであるし、裏に功利性の存することも否定できない。煙草は大きな税収源なのである。

犯罪を定義するのは、権力の発動である。権力が何を犯罪と規定するかは、その権力の実体を明瞭に物語る。そして、権力の転覆は、多くの場合、通常は犯罪であるべきはずの暴力によって実現されるのである。

社会批判は、犯罪にならない限界内における反権力のあり方である。そして、権力の正統に反し、保守本流に抗うところに革新や創造のあることは論を待たない。新奇なるもの、即ち変なるものを受容する許容度は、社会構造の弾力性を決定する基本的指標である。批判を抑圧せずに許容する社会は、暴力的変革を回避し、自律的に変革できる社会なのである。