かつて、大槻文彦の「言海」は、「猫」の項に、「人家二畜フ小サキ獸、人ノ知ル所ナリ、温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕ラフレバ畜フ、然レドモ竊盗ノ性アリ、形、虎ニ似テ、二尺ニ足ラズ、性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル、毛色、白、黒、黄、駁等種種ナリ、其睛、朝ハ円ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ、陰処ニテハ常ニ円シ」と記述していた。

芥川龍之介は、「澄江堂雑記」において、この「言海」の猫の説明をとりあげて、猫に窃盗の性があるというのならば、「犬は風俗壊乱の性あり、燕は家宅侵入の性あり、蛇は脅迫の性あり、蝶は浮浪の性あり、鮫は殺人の性ありと云っても差支えない道理であろう」として、「大槻文彦先生は少なくとも鳥獣魚貝に対する誹毀の性を備えた老学者である」と書いた。

さて、大槻文彦の猫の説明を注意深く読むと、冒頭に「人家二畜フ小サキ獣」という定義があって、最初から猫を人間社会の文脈のなかで捉えていることがわかる。「窃盗ノ性アリ」とか、「性、睡リヲ好ミ」などの表現には、猫を人間と同等視するような、猫を人間社会の一員として処遇するような不思議な暖かさがないでもない。

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実は、人間と同じ社会的存在に位置付けるからからこそ、窃盗が問題となるわけだ。つまり、人間の伴侶として、一定の行為期待があるからこそ、動物としての猫の自然な食物獲得活動が窃盗になるということである。

猫に関する行為期待において、より基本的なのは、「温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕ラフレバ畜フ」という点である。ここには、飼主側の功利的視点が鮮明にでていて、餌を与える対価として鼠を捕ってもらうという契約関係が想定されているわけである。そして、この契約の主旨に反した行動を猫がとるとき、窃盗という非難を受けることになるのである。

この点、芥川龍之介の論評は、文学として、軽妙な諧謔として、秀逸を極めたわけだが、「窃盗ノ性アリ」の本質を理解していたとはいえないのである。