大槻文彦の「言海」は、明治から昭和の初めまで広く利用された当時の代表的な国語辞書である。その「猫」の項を引くと、「人家二畜フ小サキ獸、人ノ知ル所ナリ、温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕ラフレバ畜フ、然レドモ竊盗ノ性アリ、形、虎ニ似テ、二尺ニ足ラズ、性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル、毛色、白、黒、黄、駁等種種ナリ、其睛、朝ハ円ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ、陰処ニテハ常ニ円シ」と記述されてある。

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もっとも、これは昭和初頭の版までで、既に戦前のうちに、「然レドモ窃盗ノ性アリ」の部分は削除されたようである。それでも、つい最近まで、猫に盗癖のあることは、「お魚くわえたドラ猫追いかけて・・・」というサザエさんの主題歌に名残を留めていたのである。

この記述、大槻文彦の独特な諧謔趣味に発したものか、大まじめな学問的薀蓄かは、一概に決し得ないところである。必ずしも非科学的といえないのは、同じ頃、イタリアの学会では、ロンブローゾが犯罪者になりやすい人間の体質的特長について、科学的分析を発表しているからである。ロンブローゾによれば、「窃盗ノ性」は、人間の一定の生物学的特徴に関連付けられるのであり、それを猫の生物学的特質に還元することは自然な展開なのである。

ロンブローゾの学説は後に否定されるが、その学統は犯罪の原因を客観的要因に求める実証主義的犯罪学に結実し、犯罪の背景にある社会学的要因や心理学的要因の究明への道が開かれたことは、大いに学問的意義のあることだったのである。大槻文彦の猫の犯罪学にしても、必ずしも馬鹿にできないものであって、その社会的背景は論じるに値するのである。

森本 紀行 HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長 HC公式ウェブサイト:fromHC X(旧Twitter):nmorimoto_HC Facebook:森本紀行