小池都知事は73歳で、国会議員としての政治家デビューは1992年だ。バブル絶頂期で、国連の日本に対する期待も大きく、日本も安全保障理事会常任理事国入りを真剣に目指していた時期だ。1992年当時、日本のGDPの世界経済におけるシェアは、約18%あった。

昔の話である。現在の日本のGDPの世界経済におけるシェアは4%以下だ。常任理事国入りの可能性は、限りなく皆無に近い。真面目に目指している者も、もうどこにもいないだろう。「目指すのをやめます」という宣言を出して得をする政治家も官僚もありえないため、誰もそのように言っていないだけだ。国連側も、お世辞は言うだろうが、日本の国力が30年前とは天と地ほどに変化していることを知らない者などはいない。

日本の財政赤字はGDPの260%の規模に達している。この財政危機の状況をどれほど深刻にとらえるべきかについては異なる意見があるのは承知しているが、控えめに言って財政破綻したら収拾のつかない混乱が広がる恐れのある領域で、新規の重要な国際的な財政負担などを軽々しく作っていける状況ではない。

日本が国連から脱退するか、といえば、それは国益に合致しない。国連加盟国としての義務を果たしながら、最大限の貢献を、効果的な活躍を通じて、進めていくことは、ウィン・ウィンだ。

だが登場しなくていいところにまで首を突っ込み、目的が不明で、合理的な計算も全くないまま、高齢の政治家が、将来世代の負担になる財政貢献の口約束だけをしていくのは、まったく次元の異なる話だ。

追加的な踏み込んだ国連への貢献を行う場合、それがどれくらい合理的な必要性を満たす措置であるかという点に関する評価とあわせて、日本の国益と合致の度合いを冷静に評価しなければならない。当たり前の話だが、今まで通りのやり方に持続可能性があるかは、より厳しく問い直していかなければならない時期になっている。

ロマン主義的な国際主義、安易な精神論、あるいは万が一には時代錯誤の日本の置かれている状況への誤認をしたまま、国連への貢献を高めるのは、危険だ。日本国民の理解のみならず、国際社会における理解も広がらないからだ。