ところで、当方は米TVシリーズ「選民」(The Chosen)を観てきた。イエスと12弟子たちの交流が描かれている。イエスは自身の語る意味を理解できない弟子たちにたとえ話で忍耐強く諭し続ける。多くの奇跡を行うが、弟子たちはイエスの本当の願いを理解できない。誰が一番偉いかなどと言い争う弟子たちに、イエスは絶望するような思いで怒りを発し、一人寂しいところに行く場面は心を突く。

救い主イエスと、イエスによって選ばれた弟子たちの間にはパーセプション・ギャップがあった。イエスと両親(ヨセフとマリア)との間にもパーセプション・ギャップがあった。弟子の中には、イエスを政治的指導者と考え、民族の解放者と受け取っていた弟子たちもいた。イエスと弟子たちの間には世界観、人間観で大きなギャップがあった。

その結果、神の中心的な摂理はユダヤ民族から、民族、国家の壁を越えて広がっていったキリスト教に移動していくことになった。ただ、ユダヤ民族を神は忘れることがなかった。なぜならば、ユダヤ民族を選民にしたのは神自身だったからだ。イスラエルは1948年、建国し、世界中のユダヤ人が神の約束の地カナンに移住してきた。

ユダヤ民族の歴史を単なる一民族の神話と受け取るか、それとも人類で先駆けて選民となった民族の歴史と受け取るかで、現在のイスラエルの動向への評価は変わるだろう。明確な点は、選民だとしても、神が発信するメッセージとずれが生じることがあることだ。だから常に自省しながら他民族との共存の道をいかなければならない。選民は他の民族に対して責任がある。それは神の祝福を受けた選民の義務であり、同時に誇りでもある。ネタニヤフ首相には、ユダヤ民族と同じように苦難の道を歩むパレスチナ民族に温かい手を差し伸ばしてほしい。

参考までに、トランプ米大統領の「米国ファースト」、オルバン首相の「ハンガリー・ファースト」、日本では参政党の「日本人ファースト」といったように、「ファースト」を政治信条に掲げる政治家、政党が世界的な広がりを見せているが、「ファースト」にはナショナリズムや優越意識がみられる一方、一種の「選民思想」がその根底に潜んでいるのを感じる。