当然寝る時も例外ではなく、牢名主は一畳丸々使ってゆったりとしたスペースで休息をとることができたのに対し、平の囚人は自分の足を延ばすのさえままならない状況で寝なければなりませんでした。
なおトイレも牢内にあり、とりわけ夜間のトイレは厳重に監視されていました。
夜間にトイレに行く場合は、2時間交代で寝ずの番をしている牢役人一人と平囚人二人にトイレに行く旨を伝えなければならないのです。
ここまで厳しくする理由としては衛生上の理由ももちろんあるものの、窮屈な姿勢で寝ている囚人が休憩目的でトイレに入ることを防ぐためでした。
もし夜間のトイレで粗相をしてしまった場合、翌日牢名主から折檻を受けることとなったのです。
また牢内には先述したようにトイレが牢内にあったことに加えて窓もなければ日光も入ってこなかったので、かなり衛生状態も悪く、病気も多発していました。
なお病気になった場合は溜(ため)という施設に移り、そこで治療を受けることができましたが、そこへ移ることができずに命を落とした囚人も数多くいたのです。
また親や主人を殺したものは、どれだけ体調が悪くなったとして、溜に移ることができませんでした。
さらに牢内に人員が増えすぎて生活に支障をきたすようになった場合、牢名主の主導のもと「作造り」という間引き(殺人)が行われました。
間引きの対象にはルールを破るものや差し入れが少ないもの、はたまたいびきがうるさいものが選ばれており、時にはそれらの理由がなくても間引きの対象となることがありました。
作造りに関して奉行所側は特に咎めることはなく、牢名主の「急病で死んだ」という届け出をそのまま受理したのです。
なお当然牢内は武器に使えそうなものは全くなかったということもあり、陰嚢蹴りでとどめを刺していました。
陰嚢蹴りで死ぬというのはイマイチ実感が湧きませんが、陰嚢を何度も蹴られると脳が混乱して交感神経が活発化し、意識を失ったりして命を起こすこともあるのです。
名実ともに「命の蔓」であった賄賂
