孤立していなかったラパ・ヌイの人々

 ウォリン教授によると、イースター島では1300年から1400年にかけて「アフ」の神殿跡が次々と現れ、その後1400年以降になってから、クック諸島など他の中央・東ポリネシアの島々でも見られるようになるという。

 さらに、この文化の逆流を裏付けるのが「第3の波」だ。イースター島で1350年頃から作られ始めた巨大なモアイ像のような記念碑が、その後16世紀にはハワイなど、ポリネシアの他の地域でも作られるようになった。

 この事実は、イースター島が文化的な発信地として、他の島々と交流を持っていたことを示唆している。ウォリン教授は、ラパ・ヌイの人々が南米大陸と接触していたことを示す遺伝子的な証拠にも触れ、「彼らがそれほどの優れた航海技術を持っていたのなら、逆方向(他のポリネシアの島々)へも行けたはずだ」と語る。

 イースター島を「孤立した謎の島」と見なす考え方こそが「奇妙」だったのかもしれない。モアイ像は、孤立した文明の産物ではなく、広大な太平洋を舞台にしたダイナミックな文化交流の象徴だったのである。

参考:LADbible、ほか

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