草稿を編集者さんに送ってもらったのだけど、ある種の人が邪推するように、本文で「上野マンセー!」みたくゴマすりをして、「だから推薦してください」とお願いしたわけでは、まったくない。
むしろ、江藤淳とも加藤典洋とも直接対談している人としての、上野さんの業績に敬意を表しつつ、ぶっちゃけ結構、批判もしている。たとえば、1992年の『男流文学論』については――
48年生で京大全共闘の参加者だった上野千鶴子は、日本のフェミニスト批評の先駆にあたる共著で、『ノルウェイの森』の主人公を「虚焦点というかブラックホールみたいになっていて、そのブラックホールに接触する人びとの反応のおかげで彼の輪郭がやっとわかる。……ワタナベくんには能動的なアクションが全然ない」と評する。
まさに『われらが日々』の文夫と同じだが、しかしこのとき彼女の視野は、前史をすとんと切り落としてしまう。 (中 略) 「ひとつ前」の類似の体験が系譜として語られず、新たな世代の手で単に「上書き」されることで、歴史はこの国から姿を消す。
81-2頁 「切り落とし方」は拙著でご確認を
な感じだし、先日も採り上げた加藤さんの遺著『9条入門』の、上野さんの読み方に対して、
上野千鶴子は加藤に敬意をしめしつつも、生前最後の書き下ろしとなった2019年の『9条入門』を「新しい論点はほとんどありません。ほぼ江藤さんが『一九四六年憲法』に書かれたことの繰り返し」だとして、まるで浅田彰のように論評する。だがそうした読み方は、焦点を外してはいないだろうか。