聖書の中で、祈る場合、隠れて祈るべきだとイエス自身が助言している。新約聖書の「マタイによる福音書」の6章5節によると、「祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい」と諭している。喧騒な場から離れ、静かな場で祈りに集中せよ、というわけだ。

もちろん、「祈り」はキリスト教徒だけの専売特許ではない。全ての人が祈る。キリスト信者やユダヤ教徒、イスラム教徒だけではない。仏教徒も他の宗教の信者たちも祈る。その意味で人は平等だ。困難な時ほど、その「祈り」の真剣度は深まる。祈りが自分の為だけではなく、他者の為に祈る時、最も力を発揮できるというのだ。

祈りは私的なものから、公的なものまである。声を出して祈る場合もあるが、多くの場合、心の中で祈る。欧州人は米国人よりも公の場で祈ることに臆病だが、やはり祈る。

キリスト教会では、祈りで始め、祈りで終わるといわれる。自身の弱さを吐露する祈りは非常に私的だが、それだけにその祈る瞬間は真剣だ。祈るのに、どの宗派に所属しているかは問題ではない。デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴール(1813~55年)は祈りについて、「祈りは神を変えず、祈る者を変える」と述べている。

当方は2020年の新型コロナウイルスのパンデミックの時、「地域、民族、国境を越えて同じ試練に直面するという機会は歴史上でも多くはない、21世紀の世界で人類は、初めて、共通の、緊急の試練に直面していることにむしろ感謝しなければならない。この機会を逃してはならない」と書き、「祈り」という人類の武器を使用すべきだと提案した。

激動期に入った。大量破壊兵器が見直され、核戦力の強化に乗り出す国が出てきている。悪が徒党を組み暴れ出そうとしている。世界の義人たちは「祈り」を結集させるべきだ。

編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年6月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。