『誤解だらけの韓国史の真実 改訂新版』(清談社、5月4日発売)の刊行を機にした、日韓関係史の基礎知識の第11回。
元寇について私は「元・高麗寇」と教科書でも書くべきだと主張している。高麗軍も加わっているどころか、むしろ主力であり、経緯としてもけしかけたのである。
ところが、馬鹿な日本人で、高麗がしばらく抵抗したので元の襲来は遅れて準備もできたのだから感謝すべきだとか寝ぼけたことを言っている人が少なからずいる。
隣の家の住人が自分の家を盗賊に荒らされたのち、その盗賊と一緒どころか手引きまでして隣家に盗みに入ってきたとして、「俺の家が襲われている時間だけでもあなたの家が襲われるのが遅れたのだから感謝しろ」とか言って威張られても受け入れられるだろうか。
もちろん、高麗が自分から進んでモンゴルの支配を受けたわけではないし、江華島に逃げ込んだりしてある程度の抵抗もした。また、降伏ののちも「三別抄の乱」という局所的な抵抗もあった。
しかし、それは日本のためにやっていたのではなく、最後はフビライの宮廷に人質を兼ねていた忠烈王という高麗の世子(皇太子)がモンゴルをけしかけているのである。

元寇 Wikipediaより
言ってみれば、徳川家康は、当主氏直の奥方の父親であるにもかかわらず、最後は秀吉と一緒に小田原の北条家を攻めたわけだが、それを「自分たちがいなかったら、もっと信長や秀吉は早く攻撃をしただろうから感謝しろ」というようなものである。
また、たしかに高麗は最初は日本攻めを、海を渡るのは大変だからと協力するのを渋っていたのは確かだが、結局、文永の役の主力、とくに水軍は高麗軍であり、元軍といっても高麗が用意した軍船を使っていた。
文永の役と弘安の役が大失敗に終わったのち、その後、フビライに忠烈王は高麗も全面協力するからと三度目の遠征をけしかけたが、ベトナムで手こずっていたこともあり、実行されなかった。