難破船の正体と津波の影

 研究者や地元の人々は、失われたガレオン船とその難破の原因を突き止めるため、オレゴン海岸の歴史を徹底的に調査した。その結果、蜜蝋や積荷の破片が発見された場所から、これほど内陸まで漂着物を運んだのは津波以外に考えられないと結論づけた。

 1700年に発生した巨大なカスケード地震と津波は、日本の歴史書と先住民の口承の両方で詳細に記録されている。それらには、まるで世界の終わりのような出来事が描かれていた。最大で高さ約23メートルにも及ぶ津波が村々を飲み込み、アメリカでは太平洋岸北西部の海岸線を完全に変形させ、木々を根こそぎにし、森を海水で浸水させたという。この津波の発生時期から、漂着物の出所となった可能性が高い船は、サント・クリスト・デ・ブルゴス号だと特定された。

 津波は難破船の一部が内陸深くまで運ばれた理由を説明できるかもしれない。しかし、サント・クリスト・デ・ブルゴス号が消息を絶ったのは1693年であり、この災害が直接の難破原因ではない。ガレオン船が実際に沈没した原因は依然として不明であり、永遠に解明されないかもしれない。激しい嵐に遭遇し、海岸に近づきすぎたために進路を変えられなかったのではないか、と推測する者もいる。

 なお、この地域の先住民の口承によれば、生存者との接触があったとされ、クラトソップ族の歴史家サイラス・B・スミスは1899年に、「彼ら(白人)は先住民の婚姻関係を無視したため、殺されるまでの数ヶ月間、先住民と共にそこに留まった」と記している。