また室町幕府が歴史上滅亡した年は15代将軍義昭が織田信長によって京から追放された1573年とされますが、実際のところ1467年から1477年まで続いた応仁の乱によって室町幕府の権威は完全に失墜していました。
この応仁の乱は足利家の後継者争いを原因として起こったもので、これを引き金に他の一族も後継者争いを引き起こし、最終的には室町幕府の主要大名家の多くが分裂して戦う大戦争に発展したのです。
さらに応仁の乱は惰性的に戦闘を続けたこともあって明確な勝者もなければ敗者もなく、ただただ室町幕府の体力を削っただけの争いでした。
応仁の乱後の100年間も室町幕府は存続していたものの、実態は京周辺を統治する一地方勢力や戦国大名への権威付け機関であり、とても武家の棟梁とは言えない代物でした。
さらに南北朝統一から応仁の乱の間の75年間も日本各地で反乱や内輪揉めが相次ぎ、室町幕府の権威は鎌倉幕府や江戸幕府に比べてはるかに弱かったのです。
そのため室町幕府は他の政権が行ったような殺生禁止令や人身売買禁止令などといった倫理的な統制令を出すこともできず、既存の法慣習や民間習俗に則って統治を行っていました。
呪術的な裁判、没落した者には人権なし

それでは室町時代において、具体的にはどのような法慣習が取られていたのでしょうか?
例えば裁判の面では、熱湯に手を入れてその火傷具合で有罪か無罪かを決める湯起請(ゆぎしょう)というものが行われるようになりました。
なおこのような裁判は戦国時代に入るとさらにヒートアップし、焼かれた鉄を持って神棚まで持っていく行為の成否で有罪か無罪かを決める火起請(ひぎしょう)というものが行われるようになったのです。
また幕府や朝廷が金融業者などに対して債権を放棄するように命令する徳政令が行われるようになり、徳政令を求める一揆も起こるようになりました。