慶長の役ではそれに懲りて、沿岸部に日本式の倭城を築いてしっかり基盤を固め、1599年の春になったら大攻勢をかけて漢城を落とす予定だった。ところが、秀吉が死んだのでいったん撤兵することになった。

慶長の役 蔚山籠城図屏風(福岡市博物館所蔵) Wikipediaより
それを聞いて勇気百倍になった明軍などに苦戦したものの、奮戦して窮地は脱し、水軍も撃退して司令官の李舜臣も戦死させたということである。だから、明の記録を見ても、秀吉の死でなんとか窮地を脱したといった受け取りだった。まして、李舜臣を東郷元帥が尊敬していたなどというのは都市伝説にすぎない。
それでは、そのまま戦争が一年続いたらどうなったかといえば、琉球王国を征服した後の講和条件に近いものになったのかもしれない。つまり、若干の領地の割譲、漢城にお目付役を置く、朝鮮を仲介にしての日明貿易の実施といったあたりである。そのあたりなら、琉球処分の顛末の後の明の態度を見たら、拒絶していたとは思えない。
小西行長らが明とした交渉については、モンゴルのアルタン・カーンと明のやりとりが参考になると思うが、それはまた回を改めて論じる。