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前稿「日本政治のトリレンマ①」では、現代日本政治の根底に流れる“官僚思考”と、それが制度の中にどのように埋め込まれてきたかを論じた。今回はそれに続いて、日本政治を半世紀にわたって支配してきた自民党的な統治構造——その原点である「55年体制」について考察する。
1. “55年体制”とは何だったのか?
日本の戦後政治を語る上で、1955年に成立したいわゆる「55年体制」は外せない。
この年、日本政治にとって象徴的な二つの出来事が起きた。
自由党と日本民主党の保守合同による自由民主党の誕生 分裂状態にあった社会党の再統一
この保守と革新の「二大政党体制」が形だけ整えられたことで、日本政治は約40年にわたり、「安定的な保守支配」と「制度化された対立構造」の中で動いていくことになる。
自民党:親米・資本主義・改憲志向 社会党:反米・社会主義・護憲
このイデオロギー対立が、60年安保闘争や学生運動、浅沼稲次郎暗殺といった政治的事件に象徴されるような、国論の分断を生んできた。
しかし、この「対立の演出」こそが、55年体制の最大の特徴であり、同時に日本政治に安定をもたらした構造でもあった。
2. 制度化された「対立」とは何だったのか?
一見すると激しく対立しているように見える自民党と社会党。しかし、実際には社会党には政権を担う力量も意志もなく、自民党もまた「革新勢力の存在」を排除することはしなかった。
むしろ、社会党の存在は体制にとって都合の良い“安全弁”として機能していた。 国民の中に存在する社会主義的・共産主義的な思想を、制度の枠内で吸収し、暴発を防ぐ——それが55年体制の本質だったといえる。
つまり、社会党は「革命の防波堤」であり、政治的ガス抜き装置でもあった。
マスコミ、法曹界、教育界に根を張った左派的な思想の“溜飲を下げる”ための受け皿を、自民党がある種、制度設計として容認していたのだ。