サイパン玉砕を機に栗林中将麾下の小笠原兵団が強化され、市丸利之助海軍少将と航空隊井上佐馬二大佐が島に赴任して来た。この井上大佐との口論が和智転勤の原因だった。結果、戦いでかつての部下を死なせ、自分が生き永らえたことが、以後45年に渡る彼の活動の源泉となった。

和智は終戦の年の11月、慰霊のことを考えて寺の嫡子だった同僚を伝手に天台宗の僧として得度した。斯くて僧「寿松庵恒阿弥」こと和智恒蔵の活動が本格化するのだが、既に終戦直後の8月末にも、進駐した米海兵隊大隊長のヘイワード大佐に硫黄島への慰霊渡航を申し出ていた。

6年後の51年12月、遂にGHQから渡航許可が下りた。和智は47年11月に東京裁判のキーナン検事に、翌年3月にはウェッブ裁判長にも手紙を書き送った。手紙で彼は、硫黄島慰霊のために仏僧になったのに、戦犯として巣鴨に勾留され機会を奪われたと訴えていたのだった。

52年1月末、墨染めの衣に茶色の袈裟掛けで7年振りに硫黄島の土を踏んだ「寿松庵恒阿弥」は、翌53年6月には硫黄島協会を設立し、遺骨収集活動を始動する。得度といい協会設立といい、目的にためなら何事も厭わず邁進するのが和智という人物の性分だった。

なかなか進捗しない活動の中で和智が次に打った手が、ケネディ大統領への以下の直訴状だった。61年2月11日付のその文面は以下のようだった。

ご就任おめでとうございます。実は私はかつて駐日米国大使館を通じてアイゼンハワー大統領にも、ここに申し述べるのと同じような遺骨収集の嘆願をいたしましたが、今に至るも何らご返事を頂いておりません。中略

今年は硫黄島激戦の十七回忌に当たります。仏教では十七回忌というのを特に重視しており、私としては硫黄島協会を代表してあの島に放置されている遺骨の収集をお願いせずにいられません。今も遺骨があのように放置されたままになっているのは、人類に対する「重大な冒涜」と思われるからです。