市町村制度が発足したときには、東京市・大阪市・京都市では、府知事が市長の職務を代行する市制特例が敷かれていた。それが廃止され、初代市長が選ばれたのは、1898年のことで、市議会が主導権をとっていた。

4月3日発売の『古地図と古写真で楽しむ大阪歴史さんぽ』(TJMOOK)では、大阪府政と市政の発展市を載せているが、今日は歴代大阪市長について書く。

古地図と古写真で楽しむ大阪歴史さんぽ

初代市長の田村太兵衛は、大阪の呉服商出身だったが、そのあとは、薩摩・長州・土佐・福岡藩出身の官僚経験者らが、スカウトされるようなかたちで選ばれた。しかし、最長でも在任期間は5年で、強いリーダーシップを発揮したわけでなく、ものたりないものだった。

そこで、1913年に大阪府警察部長(現在で言えば府警本部長)を13年間もつとめて清廉な人柄で信望を集めていた、会津藩出身の池上四郎が招聘された。10年間もつとめたので、実質上の初代大阪市長のような存在だ。

池上四郎第 6代目大阪市長 Wikipediaより

池上家は、信州高遠で保科家に仕えていた上級武士である。戊辰戦争では会津籠城戦に参加し、やがて転封にともない斗南(むつし)へ移った。しかし、まず兄の三郎が上京し、それを頼って四郎も上京して、書生をしながら勉学に励み、警察官僚となった。その後は順調に出世し、千葉や兵庫の警察部長を経て大阪にやってきた。

池上は大阪市長を10年間務めたのち、1927年、朝鮮総督府政務総監となり、京城に赴任したが、病に倒れて、1929年に死去した。

六女紀子(いとこ)が川島辰彦・学習院教授の母で、その子が皇嗣妃紀子妃殿下である。したがって、悠仁さまの高祖父ということになる。

池上の最大の功績は、就任早々に、助役として東京高等商業学校(現・一橋大学)教授だった關一を1914年に助役として招聘したことである。この關が池上の後任として、1923年から1937年まで市長をつとめ、「大大阪建設の父」と呼ばれることになる。したがって、池上と關の業績は重なっており一体として論じられるべきとされているが、天王寺動物園の開園、児童相談所・公共託児所の開設、配電事業の市営化などがあり、御堂筋を大阪のメインストリートとする計画は、池上の市長時代に立案され、続く関一市長時代に実現し、後任の関市政時代に大大阪時代の全盛期を迎えることとなった。また、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも注力した。

悠仁親王 宮内庁HPより