こうした在米のベトナム人たちの全米組織が4月1日、この4月を「暗黒の4月」と命名して、30日にワシントンを中心に追悼の式典を開くことを発表した。同組織は今年がサイゴン陥落の50周年であり、旧南ベトナムの自由と独立が失われたことへの追悼を表明する、としている。同時にベトナム戦争の犠牲となったすべての人たちへの慰霊の意をも表する、という。
私はベトナム戦争の最終段階とその後の革命を4年近く現地から報道した。サイゴン陥落の日も北ベトナム軍戦車隊が南ベトナム大統領官邸に突入し、占拠した直後に内部に入り、南政権の完全な屈服の光景を目撃した。だからベトナム戦争の終結から50年というこの機会には考えることも多い。「あの戦争の教訓とはなんだったのか」とも回顧する。戦争後に赴任したワシントンではアメリカの内政や外交があの戦争での挫折で大変転した結果をみた。
しかしなお、私自身のこの戦争での最大の教訓は日本側の国際情勢に対する大きな誤認の危険に対する痛烈な認識だった。現地に行く前はこの戦争について、アメリカが帝国主義的に侵略し、ベトナム人民はみな抵抗しているという構図を抱いていた。日本の主要新聞やいわゆる識者たちの見解を受け入れていたのだ。ところが現地で暮らし、南ベトナムの大多数の国民が米国の保護を歓迎してきた実態を知って当惑した。
日本側では南領内で米軍や南政府軍と戦う勢力は「南ベトナム解放勢力」と呼ばれていた。北ベトナムは南には軍隊を一切、送っていないという壮大な虚構をそのまま受け入れていたのだ。この闘争が民族独立と共産主義革命という両輪だった現実も日本側では無視されていた。政治理念を超越する民族独立派が大同して米帝と戦うという革命側の戦術上の建前をそのまま受け入れたのだ。
日本での国際情勢のこの種の誤認は1950年代の対日講和条約での「単独講和への反対」、60年代の「日米安保条約への反対」の主張をも連想させる。当時の「識者と主要新聞」が広めた両反対論はいずれも国際情勢に対する客観的な認識から大きく外れていた。いわば「反米の虚構」だった。もし日本国がこの種の反米論に従っていたらどうなったか。