『論語』の「衛霊公第十五の二十四」に「子貢問うて曰く、一言(いちげん)にして以て終身これを行うべき者ありや。子曰く、其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿(なか)れ」という孔子と子貢のやり取りがあります。子貢が「一言で生涯を通して守って行くべきことを表す言葉はあるでしょうか」と尋ねると、孔子は「それは恕である」と答え「自分が欲しないことを人に施すことがないようにしなさい」と教えています。恕とは他人に対する誠実さであり、如(ごと)しに心と書くように「我が心の如く」相手を思うということです。之は、慈愛の情・仁愛の心・惻隠(そくいん)の情と言い換えても良いでしょう。そのように相手を許す寛大な心が恕というものであり、正に仁の心であります。仁は徳の根本であり、恕とは仁の思想の原点にあるものです。
私は当ブログで嘗て『惻隠の心は仁の端なり』と題し、次のように述べておきました――本来人間は皆「赤心…せきしん:嘘いつわりのない、ありのままの心」で無欲の中に此の世に生まれ、誰しもが持っている良心というのは欲に汚れぬ限り保たれて行くものであります。にも拘らず、段々と自己主張するようになって私利私欲の心が芽生えてき、そして私利私欲の強さに応じて次第に心が曇って行くわけで、仁の心を伸ばす上でも・育てる上でも此の私利私欲をなくすことが一番大事なのだと思います。
老子は「含徳(がんとく)の厚きは、赤子(せきし)に比す…内なる徳を豊かに備えた人の有様は、赤ん坊に例えられる」と言い、赤心にかえれとしました。あるいは孟子は、「大人(たいじん)なる者は、其の赤子の心を失わざる者なり…大徳の人と言われるほどの人物は、いつまでも赤子のような純真な心を失わずに持っているものだ」と言っています。我が心の如く相手を思う赤心の境地に達するには、修養を重ね人物を磨く以外に道はないわけです。
『三国志』の英雄・諸葛孔明は五丈原で陣没する時、息子の瞻(せん)に宛てた手紙の中に「澹泊明志、寧静致遠(たんぱくめいし、ねいせいちえん)」という、遺言としての有名な対句を認(したた)めました。之は、「私利私欲に溺れることなく淡泊でなければ志を明らかにできない。落ち着いてゆったりした静かな気持ちでいなければ遠大な境地に到達できない」といった意味になります。仁者たるべくは、死するその時まで唯々修養しようという気持ちを持ち続け、私利私欲を遠ざけ何事に囚われるのではなくて、無垢な生地の自分というか赤心というものを維持し、世のため人のためという気持ちを常時失わずにいることです。