ただ、それはこのゲームの「楽しみ方」とは違う気がしたんですよね。
ぱっと見て、次の決算は「このエリアかな?」という印象で、長考せずさっと駒を置いてみる。すると、他のプレイヤーも「主戦場はそっちか!」と釣られて、同じエリアに駒を持ってくる。
ところがそれで、別のエリアの均衡が崩れて……みたいに、誰もが考えすぎない分、ミスしてOKなプレイングの方が、「マジか?」「あっちゃー!」と声が出て盛り上がります。
対面で遊ぶときは、相手とリズムを合わせることが大事です。パッと直感で打つ手を決めればミスもするけれど、でもそれに釣られて他のプレイヤーもミスをして、結果的には意外にいい手になるかもしれない。 (中 略) 裏返して言うと、「正しい」最善手を打つことは、楽しむための必要条件ではないわけです。「正解」がないことが、不安を募らせるのではなく、むしろ参加者を楽しくさせる空間を作る。 (中 略) 本来、あらかじめ「ひとつの正解」があるのなら、政府が力で押しつける権威主義の方が効率的ですよね。むしろ私たち民主主義の国がめざす公共とは、そうした答えがないからこそ、国民が議論して見つけてゆくものだったはずです。
段落と強調箇所を改変
前に、試作品のゲームを「テストプレイすること」の意義が、SNSや言論空間が「自由で楽しい場所」であるための条件と、ぴったり重なる件について述べました。いま振り返るなら、それは民主主義とは「永遠のテストプレイ」でしかあり得ないことを示唆していた。

御礼: 米光一成『人生が変わるゲームのつくりかた』に拙著が掲載!|Yonaha Jun
7月に順天堂大学のイベントでお目にかかった、ゲームデザイナーの米光一成さんに、新著『人生が変わるゲームのつくりかた』をご恵投いただきました。末尾の「次に読んでほしい本」のコーナーで、私と小野卓也さんの共著『ボードゲームで社会が変わる』を挙げてくださっています。
そもそも同書の刊行後まもなく、米光さんにはサブスク番組...