クーニーはなんと、保育器に未熟児を容れて、一般客への展示会を開いたのです。
彼が最初に展示会をしたのは1896年にドイツ・ベルリンでのこと。その後、数度の展示会のため各国を回り、1903年にアメリカに腰を落ち着けることになります。
ここまで聞くとかなり不謹慎にも思えますが、彼は一般客から徴収したお金をすべて未熟児の治療費に当てたのです。

病院が放棄した未熟児を受け入れて、保育器の中で延命措置をするには多くの費用がかかりました。
保育器1台あたりの維持費は当時にして15ドル/日、現在の価値に換算すると、1日400ドル(4万円以上)かかることになります。
そこでクーニーは、展示客一人あたり25セントを徴収し、それを維持費に回したのです。
この展示会はたちまち人気を集め、多くの一般客が集いました。
次第に彼は、人々から「保育器ドクター(the incubator doctor)」とあだ名されるようになります。
小児医療の価値観を変革したニセ医者
彼の奇抜な活動により、アメリカの小児医療界に「保育器」の存在が大きく知れ渡るようになりました。
そしてついに、クーニーが願っていたように、病院側は生まれてきた未熟児を放置せず、延命措置を取るようになったのです。

1940年代初め、クーニーは保育器の展示会活動を終了しています。
この偉大な功績にもかかわらず、当時の医師たちは彼を「単なるショーマンだ」とし、プロの医療従事者とみなすことはありませんでした。
その後、マーティンは表舞台から姿を消し、1950年代に80歳で亡くなっています。そのとき、彼の懐にはわずかの財産も残されていなかったそうです。
結局、マーティンは展示を行なった十数年の間に、6500人を越える未熟児たちを病院から預かり入れました。