『論語』の「雍也(ようや)第六の二十三」に、「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し」とあります。知者というのは強みを沢山持ちながら常々様々考えている状況で、結局ある種楽しみは出来るものの心は楽でなく長寿ではないのです。「知者は楽しみ、仁者は寿し」という孔子の言に、深い意味が見出せましょう――之は昨年10月、当ブログ「北尾吉孝日記」で『弱みを曝け出す』という中で述べた言葉です。
上記章句につき渋沢栄一翁曰くは、「人には生れついて知者と仁者との別があるのでも何んでも無い。理想的に謂へば、人は(中略)、沈厚にして機敏、機敏にして沈厚、よく静と動とを兼ね、水も山も共に併せ楽む者とならねばならぬのであるが、私の如き薄徳菲才の者は、到底一身で静と動とを兼ね、山と水とを併せ楽むといふまでになれぬのである。然し、兎に角主義として私は(中略)、一方に偏する者とならず、山をも水をも、水をも山をも併せ楽む事にして居る」、とのことです。
仁とは一言で言えば他者に対する思いやりの精神、知とは知識をベースに知恵を獲得するための一つの営み、であります。知というのは勿論それなりの努力を要しますが、歳と共に色々な知り合いも出来、「経験知」や「集合知」も得られて行くものです。他方、仁というのは結局どう修養を積んで行くかに尽きるものです。知・仁どちらも必要で非常に大事ではありますが私見を申し上げれば、その難しさは仁が勝っているように思います。何故ならば歳と共に、段々と欲で曇って行く人間の心を取り戻すのは、大変な努力を要するからです。
『論語』に58章のべ109回出てくる仁という言葉は、孔子にとって「君子」と並ぶキーコンセプトです。仁の中には「忠…ちゅう:自身の内面の真心に対して誠実であること」と、「恕…じょ:自分のことのように他人を思いやる気持ち」の二つがあります。「夫子(ふうし)の道は忠恕のみ」(里仁第四の十五)という曾子(そうし)の言もありますが、私は此の忠と恕を併せて仁というのだと思っています。仁という字は、人偏に「二」と書きます。人が二人ということです。人が二人向き合っていますと相手の言葉が理解できなくとも、そのうち意思疎通を図ろうという気持ちになるはずです。そして身振り手振りを使ってでも、意思伝達を試みるでしょう。その時に二人の間に起こるのが、恕という働きであります。