江戸の火災においては纏(まとい)を旗印に建物を壊して消防活動を行う町火消がよく知られています。
江戸時代の火消しは周囲の燃え移るものを破壊して延焼を防ぐという方法がメインで、力自慢の「纏持ち」が民家の屋根に登りこの纏を振ることで、「纏を焼くな」という目標で火消し活動を行いました。
ちなみに町火消といえば「め組」が有名ですが、町火消は江戸の各所にいろは四十八組おり、め組はその1つで纏は組ごとに異なるデザインを持っていました。
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とはいえ、彼らの活躍だけが江戸の町を火災から守っていたわけではありません。
江戸の町では火災を防ぐために、様々な手法がとられていました。
特に重点を置かれていたのが、火除地(ひよけち)の設置です。
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火除地とは防火用の空き地のことであり、1657年に江戸を震撼させた明暦の大火をきっかけに設置されるようになりました。
この火除地があることにより、火が他のエリアにまで延焼することを防いでいたのです。
また火除地は単に火が燃え広がらないようにする目的だけでなく、火災が発生したときの人々の避難場所としても機能しており、幕府から「火事が起きたら火除地か川沿いに避難すること」というお触れが町人に出たほどです。
このように江戸の火除地は火災防止を目的とした場所であったものの、次第に広場として娯楽の場へと変化していきます。
火除地には出店が並び、多くの人で賑わうようになりました。
特に両国橋周辺(中央区東日本橋二丁目周辺)が盛況を極め、1740年代には娯楽が一部制限されたものの、しばらくしたらまた活況を取り戻します。
しかし火除地だけで江戸の火災を完全に防ぐことは出来ず、その後も江戸の町は火事に見舞われ続けました。