■乙女峠の聖母マリア出現事件
しかしこの時、連綿と続いてきたキリスト教禁令はまだ解かれたわけではなかった。「信徒発見」直後に明治維新が訪れたが、「浦上四番崩れ」と呼ばれる迫害が本格化したのは、じつは明治になってからのことだった。当初の新政府は、天皇中心の国家体制を築くためキリスト教信仰を引き続き禁止したのだ。
こうして長崎で名乗り出たキリスト教徒たち3,400人は囚えられ、萩、津和野、福山、名古屋など20箇所に流罪となる。明治4年(1871年)の廃藩置県はこの2年後のことであり、こうしたキリスト教徒の扱いは、当時まだ存続していた各藩の判断に任されていた。28人が送られた津和野藩は当初、神道による教化で改宗させようと試みたが、彼らの信仰は固く、効果がないとわかると苛烈な拷問が始まった。
雪深い冬の津和野で、氷の張った水に投げ込んだり、縛ったまま殴りつけたり、さらには「三尺牢」と呼ばれる身動きすらままならない三尺四方の檻の中に閉じ込め、裸のまま何日も外気に晒すなどの激しい拷問が行われ、耐えかねて棄教する者も現れた。その一方、改宗を拒んで殉教していった者の中には、3歳や4歳といった年端もいかぬ子どもまで含まれていたという。
こうしたキリシタンの中に、安太郎という信徒がいた。親切で優しい人柄の安太郎は、模範的な信者であった。ほかの信者からも尊敬されていたから、津和野藩の役人は、この男が信仰を捨てれば皆が追随すると考え、彼を「三尺牢」に閉じ込め、裸のまま真冬の乙女峠に捨て置いた。
安太郎は明治2年1月10日から、「三尺牢」に閉じ込められたという。戸外で何日も過ごす安太郎の身を案じた仲間たちは、小さな硬貨をナイフのように用いてやっとの思いで床に穴を開け、17日の夜、密かに彼の様子を見に行った。すると、一週間牢に閉じ込められている安太郎は、逆に仲間を勇気づけるようにこう言い放つのだ。
「私は少しも寂しくありません。毎夜、九つ時(深夜0時)から夜明けまで、きれいな聖マリア様のようなご婦人が現れてくださいます。とてもよい話をして慰めてくださるのです」
信徒たちは、この女性は聖母マリアに違いないと信じた。しかし安太郎は、仲間にこの話をした直後の22日、ついに力尽きて天に召された。聖母マリアが安太郎にどのような話をしたのか、具体的な内容は伝わっていないようだ。
現在、島根県津和野町の乙女峠には、聖母マリア出現を記念する聖堂や、「三尺牢」に入った安太郎と聖母の像なども建てられている。しかし世界的に見ると、日本での聖母関連事件としては、秋田に伝わる「涙を流す聖母像」の方が有名らしい。有名な聖母出現地と異なり大規模な施設はないが、乙女峠は津和野駅からそう遠くない、渓流の近くにある。それがかえって、聖母マリアの慈しみを感じさせる風情にもつながっている。山陰の小京都と呼ばれる津和野町内の観光も兼ねて、読者の皆さんもいつか訪ねてみてはいかがだろう。
文=羽仁礼
提供元・TOCANA
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