誰を師として選ぶかは、人生の一大問題と言っても過言ではありません。昔の人が師を求めて色々な所を旅し、そしてこれと思う人の所で「私の師になってください」と三日三晩立ち尽くめ、三日三晩座り尽くめで御願いしていた類の話はよく聞きます。目の前で師と触れ合い、師の謦咳に接することが最も望ましいのは言うまでもありません。但し、師に恵まれたとは言い難い小生のように残念ながらそれが叶わぬ場合は、師と定めた偉人の書を通じて学びそれを血肉化して行くのです――之は嘗て此の「北尾吉孝日記」で、『「憤」の一字を抱く』という中で述べた言葉です。
日本が誇るべき大哲人・教育家である森信三先生の大阪天王寺師範学校本科での講義を纏めた『修身教授録』の第1部、第10講「尚友」には次のように書かれています――人を知る標準としては、第一には、それがいかなる人を師匠としているか、ということであり、第二には、その人がいかなることをもって、自分の一生の目標としているかということであり、第三には、その人が今日までいかなる事をして来たかということ、すなわちその人の今日までの経歴であります。そして第四には、その人の愛読書がいかなるものかということであり、そして最後がその人の友人いかんということであります。