「現地」「現場」の者しか物事を語れないとしたら、私達は世の中のことは自らの生活圏のことしか語れなくなる。

一般人が国際情勢を語ることは事実上、不可能だろう。ほとんどの日本人は、イスラエル軍のガザ地区攻撃を語れなくなる。「現地」「現場」に行くことが出来ない歴史の議論も不可能だろう。事実上「討論会」も成立しなくなる。少し考えれば「部外者なき議論」はあり得ないことが理解できるはずだ。

だから「現地」「現場」を根拠とし議論の参加資格を問うことは誤りだし、イスラエル軍批判の例をみてもわかるように「現地」「現場」の強調は実は加害者に有利な主張なのである。

このように、クルド人問題では理解に苦しむ主張をする者が少なくない。

彼らは「差別に抵抗するリベラルな市民」でもなんでもない。単に不良クルド人の脅威を直視できないだけである。控えめに言って、かなりみっともない振舞いである。

不良外国人(クルド人)は怖い。それは皆同じである。だから恥ずかしいことではない。恐怖への対処で求められることは「正しく恐れる」ことである。

ところが川口市のクルド人問題は「正しく恐れる」ことができず、自分を一段高見に置いて「多文化共生」「多様性」「差別」などの語を並べ、他人を諭す者があまりにも多い。

誰よりも「多文化共生」「多様性」「差別」への知識が豊富なはずの研究者・記者などからクルド人問題の解決に向けた説得的な提案を聞くことはまずない。

揚げ足どり報道して何か言った気になっているだけである。

煽るつもりはないが、人生のかなりの時間をかけて「多文化共生」「多様性」「差別」について学んだが、不良外国人を「正しく恐れる」術を知らず、その存在を見て見ぬふりする大人になったなど恥ずかしい話だ。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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