サヨクの憂鬱

マスコミでは盛んに、支持政党が無い有権者が増えてきていて、あたかもこれが一大事であるかのような報じ方をしている。

政党支持率「支持政党ない」45.0% NHK世論調査

一方で同様に、安倍晋三批判を繰り返してきた旧民主党、社民党、日本共産党、れいわ新選組の支持率を観てみれば良い。この数字が低下していることでマウントを取りたいのではなく、野党の支持率が低下してもゼロにはならないと言うことは、この状況にあっても野党支持者という框(かまち)に取り残されている人たちは、野党の本質を見抜けず、自分たちが見たい野党の姿というフィルターで野党を見ていて、それは言葉を変えればより原理主義化しているということなのだ。

これほど野党への信頼が落ち込んでもなお、野党を支持し続けるのは、自分たちが信じたい野党の姿を理想とし、他が見えなくなっているとも言える。

そして、これら頑強な野党支持者の概念の根底にあるのが、縷々、書いてきた社会的マイノリティの保護や人権への重視だ。マイノリティの生の声を届けたいという、好意的解釈をする一方、マイノリティ保護を支持する人々の意識にあるのは、平和とか人権とかの言葉尻「だけ」に囚われてないか?実は、日本国憲法に書かれている人権や権利への無理解はないのか?と言う疑問はないのだろうか?

繰り返すが日本国はその憲法において世界にも類の無い個人の人権の保障を行っている。加えて、仮にマイノリティの訴えや欧米の潮流を鵜呑みにして、過剰なマイノリティ保護をするならば、それは結果的に逆差別を生み出す素地になっていないか?という疑問をなん度も、あちこちで書いてきた。

だからこそ資本家と労働者は敵同士、と言う価値観を創造したマルクスに常に回帰する必要がある。何せ、今の日本のサヨクの大元締めなのだ。

マルクスは他人の金をアテにして、頭の体操を繰り替えしてきた結果、資本論を書くに至った。エンゲルスは、マルクスが唱えた「資本家と労働者の対立的考察の果てに労働者が富の源泉であり、国家がその労働者の生み出した富を再分配すれば、きっと差別や格差の無い平等な社会が実現するだろう」という妄想と、現実のマルクスは他人の財布をアテにしながら、あちこちの女に手を出し続けたロクデナシだったことの乖離をどう見ていたかは不明だが、少なくとも、当時のプロイセンにあった労働者の抑圧された社会を改革する一案としてのマルキシズムを受け入れることで、マルクスの存在に妥協していたのだろう。

労働者階級(プロレタリアート)の蜂起を訴えたマルクス自身が、資本家におんぶにだっこだったのは厳然たる事実なのだが、だからこそマルクスは改革思想、革命思想だと後に語られる新しい「資本家」像の具現としての『資本論』を提起したと、朧げな感想を抱く。

まあそれもこれも、マルクスの本音の部分はマルクスと同時代に生きた人々の思いを憶測するしかないのだが。

ともあれ、マルクスはこの世の中の経済を資本家と労働者とに区分けすることで、資本とは何か?の問いに対する答えを導き出した。それが、労働者の労働力が物の価値を決めると言う労働価値説へと昇華する。マルクスの著した『経済学批判』の中で、マルクスはマルクスによるマルキシズムを展開する。

「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した関係、すなわち、彼らの物質的生産力の一定の発展段階に対応する生産関係を結ぶ。この生産関係の総体が、その社会の現実の土台をなす経済的構造を構成する。…人間の意識がその存在を規定するのではなく、反対に人間の社会的存在がその意識を規定する」

ようは、労働者は自分の衣食住を賄うだけの労働力を資本家に提供すればいいのであって、しかもその労働はどのような職業についていても等価でなければならない。なんとなれば、労働者の価値は等価だからだ。と言う論を打ち出す。

このマルクスの言い分を聞いてると、まるでマルクス自身がジョージ・オーウェルの『1984』を具現したような社会の実現を願っていたかのように聞こえるのは私だけだろうか?

『資本論』は未完のまま終えている。マルクス自身が行なってきたのは、「資本家が社会の支配者となってることは、おかしい。労働者だって人間だ」と言う問いと批判だった。これは世の中の99.9%の人が賛同できる。何故なら、99.9%の人々は労働者だからだ。特に学校を出て世の中で仕事をするようになった若者には、非常に耳障りが良い。マルクスは資本主義社会批判を繰り返してきたのだから、当然と言えば当然だ。労働者を「商品」ではなく労働と言う価値を与えたことが、マルクスの考え方の根幹になっている。

これが今の日本のリベラルを自称する人々の考え方の根底にある。つまり、すべての権力者は資本家側であり、労働者から搾取することで資本家たり得ているから、労働者である民衆の敵でもあると言う論の立て方だ。だから政府批判をする。

これは戦後の左翼政党の影響が大いに効いている。戦後の社会党と共産党の影響だ。マスコミも同じ考え方に立脚する。マスコミの場合は、大本営発表の反省とマスコミによって日本社会を左翼化そうとするマルキシズムの影響を多分に受けている。教育界など典型的で、未だに日本国国歌の『君が代』に反対する教員がいるのが、まさに国家を権力者側と見ているから、抵抗するつもりの行動だ。

余談だが、サヨクはよく「総括」と「自己批判」と言う言葉を持ち出す。

あれは、堂々巡りの話し合いと言う意味だ。ようは自己批判と互いの批判を、お互いが納得するまで徹底的に話し合い答えを出すと言う考え方で、今の野党議員がよく話し合いが大事だとか、裁判所の決定に対して、「俺たちは納得してない。もっと話し合わなければいけない」と言うが、それが「総括」と「自己批判」というやつだ。

マルクスはいざとなったら暴力も辞さないと言う結構ヤバい考え方だが、今のサヨクは1ミリほど進化して、互いが納得するまで徹底的に話し合うと言う解決策を打ち出した。しかし、それも限界があるのだから裁判所に決めて貰えばいいのだが、沖縄のサヨクの人たちはそれでも納得できないで、「まだ話し合いは終わってない」と、言い続けている。

以後、

・サヨクの理想と現実

続きはnoteにて(倉沢良弦の「ニュースの裏側」)。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

【関連記事】
「お金くばりおじさん」を批判する「何もしないおじさん」
大人の発達障害検査をしに行った時の話
反原発国はオーストリアに続け?
SNSが「凶器」となった歴史:『炎上するバカさせるバカ』
強迫的に縁起をかついではいませんか?