コミュニティーは、独立した個人の集合である。そして、独立した個人こそ創造の現場なのだから、その限りにおいて、コミュニティーは創造的なのである。問題は、創造の可能性は、個人がコミュニティーに属することによって、高められるという点に帰着する。実際、創造は、社会に向かってなされものである以上、孤立した個人の地平では起き得ないであろうし、創造を組織の革新につなげるためには、コミュニティーのような何らかの媒介を必要とするはずなのである。

さて、価値が共有され、その価値の力だけで自治が成立するためには、コミュニティーには規模の上限があるであろう。おそらくは、社会が均質的であればあるほど、コミュニティーの規模は大きくなり得て、また、社会環境の変化が緩やかであればあるほど、コミュニティーの規模は大きくなり得るのだと思われる。逆に、社会が多様であれば価値も多様となり、変化が速ければ価値を共有できる時間が限られるために、コミュニティーは小さくならざるを得ない。

企業に代表される組織も、創業の原点においては、創造的コミュニティーだったに違いない。そして、おそらくは、社会構造が均質で、構造の変化が緩やかだった時期には、いわば時間がゆっくりと均質に流れていた時期には、創造的に機能していたのではないか。実際、多くの企業は目的合理的な組織というよりも、価値を共有するコミュニティーに近かったのではないか。

しかし、各自が経験に付与する価値観が多様化し、支配的価値の交代が激しい現代社会では、企業のような組織はコミュニティーとして大きすぎる。しかも、大きすぎる組織を維持するための支配原理は、命令の体系として、仕事の楽しみを完全に奪ってしまう。だからこそ、改革が必要なのである。

森本 紀行 HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長 HC公式ウェブサイト:fromHC twitter:nmorimoto_HC facebook:森本 紀行

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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