ところが、本人は親切のつもりでも相手からすると、「余計な事をするな」という現実が常にあります。「巧言、令色、足恭(すうきょう)なるは、左丘明(さきゅうめい)これを恥ず、丘も亦(また)これを恥ず・・・人に対して御世辞を並べ、上辺の愛嬌を振り撒き、過ぎた恭(うやうや)しさを示すのは恥ずべきことである」(公冶長第五の二十五)――親切も「足…度が過ぎること」では良くありません。
バランスを取ることが非常に大事である、とは『論語』に一貫して流れる孔子の教えです。「中庸の徳たるや、其れ至れるかな・・・中庸は道徳の規範として、最高至上である」(雍也第六の二十九)と言うように、中庸の徳から外れたらば、何事も最終様々な問題が生じてくることになるのです。
親切とは国語辞書を見ますと、「相手の身になって、その人のために何かをすること。思いやりをもって人のためにつくすこと。また、そのさま」等と書かれています。私は、中庸のバランスが取れた親切を徹底し適当に「人の美を成す」ということが必要だと思いってます。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年2月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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