この晴明神社の場所は清明の旧居の跡だと言われてきましたが、最近の研究では、現在の京都府庁の北側にある京都ブライトンホテルのところのようです。

菅原道真の邸宅は、下京区西洞院六条にあって菅大臣神社になっています。903年に菅原道真が大宰府で没したのち、都で災禍が続き、とくに、御所清涼殿に落雷して公卿に死者が出ました。

菅原道真像(菊池容斎『前賢故実』巻第五より) Wikipediaより

そこで、道真は雷神であるとされ、942年に北野の火之御子社に道真を祀れという託宣があちこちに下り、藤原師輔(道長の祖父)によって自邸の建物が寄付され、一条天皇から「北野天満宮天神」とされました。

1587年には有名な北野大茶湯が境内で開かれ、境内を囲むように京都の城壁である「御土居」が築かれ、1607年には豊臣秀頼の寄進により絢爛豪華な権現造の社殿が建立されました。

京都市民は大歓迎し、豊臣家にご利益があるだろうと噂しあったのですが、あまりもの評判が徳川家康を刺激し、かえって豊臣家滅亡の原因のひとつになりました。

北野天満宮の鳥居前交差点は、大内裏の西側の通りである御前通(西大宮大路)の突き当たりで、一条通より200メートルほど北にあたります。

北野天満宮Wikipediaより

京都は怨霊の都と言われます。怨霊八柱、つまり、早良親王、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、吉備真備、藤原広嗣、菅原道真をまとめて祀ってあるのが、同志社大学の北にある上御霊神社で、畠山家の跡目争いから応仁の乱が勃発したのは、この境内でのことです。

大河ドラマでまひろが死者を探して東山の鳥辺野という墓地あたりによく出没していますが、六道珍皇寺も、洛東の五条と四条の間、六波羅密寺の近くにあります。京都ではお盆に先立つ8月7日から10日まで、ここの鐘の音とともに先祖の霊である「おしょらいさん」が現世に戻ってくるとされ、「六道参り」で賑わいます。

この寺は、嵯峨天皇の時代に昼間は朝廷で仕えながら夜は冥府で閻魔様の役人だったといわれた怪人・小野篁が、ここの井戸から冥府と行き来していたと言われます。また篁は友人の藤原高藤(醍醐天皇の外祖父で、紫式部の夫である宣孝の曾祖父)にいたずらして朱雀門の前で鬼や妖怪が群れて歩く「百鬼夜行」に出会わせて怖がらせましたが、高藤が急死したときには、閻魔様に頼んで蘇生させました。

小野篁像(『集古十種』より) Wikipediaより