自民党の今後:個人商店、商店街組合、そしてコンビニ(チェーン店)へ
そんな中で、大企業的・システマチックに古い時代の名残のような裏金作りが常態化していたという信じられない事態の表面化が今回の騒動の発端であるが、自民党は、そして派閥は、これから一体どうなって行くのであろうか。
まず、派閥はなくならないと思う。より正確に言えば、上記の①~③のとりまとめ機能のうち、①や②、すなわち、カネや人事関連は、派閥ではなく政党(自民党)そのものがシステマチックに、集めたり再配分したり任用したりして行くことになると思われるが、③の機能は残るであろう。
改めて論ずるまでもないが、ある程度の人間の集団があって、その長(ヘッド)を、特に選挙で選ぶということになっている以上、Aさんを推したい人々、Bさんを推したい人々、Cさんを推したい人々・・・といった集団は生まれざるを得ない。
パーティをいくら禁じたところで、集団で集めた資金の透明化のルールを徹底したところで、つまりは派閥を解消しようとしたところで、「〇さん推し」の集団・仲間はどうしても誕生する。むしろ、誕生しなければ混乱を招くだけである。
その上で③の機能は残るものの、今後、①や②のカネや人事関連の機能は、自民党本体がより積極的に担っていくことになると思う。むしろ、今回のピンチを受け、やくざにも喩えられる派閥の親分たちの集まり・合議による決定などの前近代的な統治システムから脱皮して、自民党は徹底した近代政党に生まれ変わった方が良い。派閥としてではなく、党として公明正大に資金・浄財を調達し、それを派閥と関係なく、構成員たる党所属議員などに必要に応じて透明に分配するべきである。
人事も派閥ごとではなく、党として、しっかりと必要な人材・人員を募集し、適材適所で、議員、議員のスタッフ(秘書等)、党本部のスタッフ、党の政策研究員、庶務担当等々、を採用・任用して行くべきである。
正直、これまで、そうした普通の大企業がやっているような、人材の採用や人事管理、資金調達・管理は、自民党として、しっかりした形では行えていなかったのが現状であろう。ピンチの際の改革で却って大きく生まれ変わった例は、古今東西、官民問わず、枚挙にいとまがない。自民党は、今回の危機を猛省し、しっかりとした近代政党路線に向かうべきである。
このように①や②(カネや人事のとりまとめ)だけを考えると、上記のような党改革が進めば、派閥は雲散霧消していくことになるが、先述のとおり、③はより先鋭化した形で残る。考えてみれば、自民党の国会議員になるということは、有権者の付託を受けて、正しいと思われる政策実現のために、総裁(=総理大臣)を魂の一票で選ぶ、ということでもある。
その魂の一票を、自分が総理総裁になってもらいたいと心から思う人以外の人に投じるというのは、有権者への裏切り行為とも言うべき罪深き行いである。もう少し丁寧に書けば、例えば、自らの信念としての政策実現のため、Aさんを総理総裁として戴きたいがために、Aさんを支持する人たちとグループを作ると、それが「派閥」的なものになるわけだが、それは当然の動きであり認めなければならない現象といえる。
しかし、本心ではBさんが総理総裁になるのが良いと思っているのに、ある派閥に属しているがために、その親分の意向で、派閥として一致団結してAさんを推すという場合は、上記のとおり「有権者に付託された魂の一票を売り渡している」ことになり、大問題とも言える。
そして実際、例えば、麻生派や二階派は、派閥の長である麻生氏や二階氏が総理総裁になる可能性はほぼゼロであることからして、その魂の一票を、麻生氏や二階氏に委ねるための集団、ということになる。
こういう状態は、やはり健全であるとは言えず、今回の派閥解散の流れを経て、「ある政策実現等のために、本当に総理総裁になってもらいたい人を推す人たちの集まり」こそが、新しい派閥的なるものの形になることを期待してやまない。
派閥はなくなり、今後は議連など、特定の関心政策や当該政策変更のための集まりが自民党の中心になる、と解説している人もいるが、私見では、政党といえども生身の人間たちの集まりであることを考えると(近い将来、AIによる政治、みたいな時代が来ないとも限らないが)、そうした政策別というよりは、政策を基軸としつつも、「誰をトップに戴くのか」という志向別の集団として、派閥的なものは残り続けることになると考える。
これまでの派閥の流れを乱暴に大きめの地域の商店街(一定のエリア内に、通りごとに商店街が乱立したりしているケースも少なくない)で喩えると、元々は個人商店だった雑貨屋(個々の政治家)が、地域での存在感を発揮するために〇〇商店街組合という名の集団に加わったものの(派閥)、商店街組合や商店街そのもの(派閥)の衰退・解散とともに、全国チェーンのコンビニなどに衣替えして商店街を離脱してしまう、みたいな状態に来ていると言える。
個人商店が、全国チェーンの店にドンドン置き換わって行くことは、近代合理主義の帰結としては、理解できる。客観的な公正性を重視して、効率を考えて合理的に判断すれば、個人商店を続けていくより、全国チェーンの傘下に入って行くことは理にかなっている。
今回の派閥解消の流れを受け、自民党も党として、上述のとおり、合理的客観的に政治家個人個人を傘下に収めて「統治」し、公明正大に資金の流れや人事を差配して今後は運営していくことになるであろう。ガバナンスとはそうしたものである。
ただ、最後に考えなければならないのは、果たしてチェーン店ばかりの商店街に魅力を感じるであろうか、ということである。合理的・便利なだけの商店街に愛着をもって何度も訪れたくなるであろうか。
ここにおいて大事になるのは、全体としてのガバナンスを利かせつつも、個々の政治家が、個人商店としての矜持をもって、個性を発揮することが求められる、ということだ。すなわち、お金や人事面では、党全体の仕組みに依存しつつも、逆に依存することで浮いた時間等を有効に活用して政策力を磨き、個としての自己主張をきちんと持ち、培われた見識に基づいて誰を総理総裁に戴くのか、魂の一票を行使する個としての力も問われるということだ。
このことは、自民党で今後、議員の採用や育成を中心的にしていく人たちや、自民党の政治家になろうとする個々人が強く意識しなければならないことだと思う。
ガバナンスが利くだけになると、それは、日本においては共産党や公明党に近く、両党には失礼な書き方になるが、例外的な方も少なくないものの、一般的には政治家としての個性は欠けていってしまう。ガバナンスが極端な場合は、中国共産党や統一ロシアになってしまい、党そのものが巨大な一つの派閥のような形になってしまう。一人の親分が全てを決める形となって各政治家は個性を失い、何の多様性も感じない、同じ店がいくつも並んでいるような、非常につまらない商店街のようになってしまう。
自民党が今回の派閥解消の流れを機に、近代政党としてしっかりとガバナンスを利かせつつ、個々の政治家の育成においては、個性を発揮できる政治家に育つようになること、すなわち、求心力と遠心力がバランス良く働く政党になることを願ってやまない。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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